2011年5月14日土曜日

何を大事としているか




ぎっちり詰まった一週間が終わり、天気のよい土曜日になった。目の前のことに振り回されたり追い立てたりせず、何を大事とするか、しっかり考えたい。つつかれるとすぐ感情で反応してしまう弱さを感じる。感情によるものや、動機を考えない言動は行き詰るし、よいものに向かわない。


いのちが育つ、ということは人手を超えたものによる。人手を尽くせば尽くすほど、そのことを教えられるように思う。


過敏さとこだわりから教室におれない子と人形で遊んだ。彼女が並べる人形を「お話しているの?」「ごはんを食べているの?」と声をかけ、ただその世界を私が味わっていく。その30分が彼女のこころを整え、教室での刺激を受け止められるようになってくれればと思う。私は整体が好きだが、いい先生はゆっくり休ませて体を弛めさせてくれるとともに自分では気づかない自分の体のことを伝えてくれる。そして、整体の場を出てから日常の中で自分の体をどうしていけばよいか気付かせてくれる。彼女も私のところで休まるとともに「こうやれば、私は大丈夫」と思えるようになる気づきを自分で得て欲しい。他者の人手ではなく自分が得て行くものでなければやっぱりだめだ。そういった気付きや生き方を本人が得て行くのを見守ることを、私が求めなければいけない。

小3からかかわった子が、この春中1となった。


どんな中学校生活を送れるか、ずっと話し合ってきた。中学になり担当はかわったが、話を聞くと予想以上にがんばって学校生活を送っているようだ。「がんばっているな~」と声をかけ、いつものアホな雰囲気の抱擁をした。制服姿を撮らせてもらった。小4の頃はカメラを向けると怒って絶対撮らせなかったが、「撮っていい?」と聞くと「ええで。」としっかりカメラを向いてくれた。この先の彼の成長も簡単とは思えない。しかし、成長させてくださる方に期待しよう。


種を地面に植えるか鉢に植えるか、子どもが学校という枠で育つか、それ以外の枠で育つか、いずれにしても枠にあわせることではなく育つことを見守らなければ…。週末は、静まって考えたい。

4 件のコメント:

  1. 育ちを見守ることは簡単ではありません。子どもは自然に放っておけばよくなるというものでもない。難しいところです。

    障害のある子どもたちには、どこで、どんな負荷をかけるかが特に難しい。私も毎日悩んでいます。

    私は意外に戸塚ヨットスクール的なもの好きだったりするのです。こういう過激さもないとバランスが悪すぎると思いませんか?

    返信削除
  2. どづきヨットスクール、と言われたあの戸塚ですよね。
    身体感覚や生活感覚へのアプローチは正しいことと思います。負荷をかけるとしんどいのは、実はかけた教師だったり親だったり…、うまく逃げてごまかすことはあり得ると思います。どこかで「人としてどうよ!?」みたいに真っ向勝負も大事と思います。

    心と体、私とあなた、母と子…区別がつく、区別がわかる、ということは、とても大事なことのようです。しんどいのは、あいつのせい、じゃなくて自分の心にあることなんだ、と区別がつくように、どうすればしてあげられるのか、どう見守ればいいのか、と思います。

    返信削除
  3. ホントですね。答えはいつも自分の心の中にある。
    「大きな区別」がつくことは、人生の基本的スタンス。
    「微妙な違い」がわかることは、人生の豊かさのバロメーターだと私は思います。
    すべては、信仰や生き方に現れます。
    味わい深く、香り高く。
    これでいきましょう。

    返信削除
  4. ダビデは自分が主にどう取り扱われたか、という実感から”死んだ犬のような”メフィボシェテに恵みを与えた、と学ばれていましたね。

    しんどさを自分の外のせいにする子(親)らが、自分の内にあるしんどさに目を向ける、…私自身が自分の内にあるしんどさに目を向けられる恵みを教えられてこそ、示せることかな、と思います。

    「なんかうまそうなものを食ってそうな顔やな~」「何、おもしろいことしてるんやろ。」と受け取ってもらえることは、とても大事なことと考えています。

    返信削除