土曜から田舎に帰った。
80になる両親の様子を見ることと、今回は高校の先輩が結婚されるので、そのお祝いの会に参加するために帰った。
私は、高校の時に下宿しており、その先輩も同じ下宿だった。同じ下宿の一つ下の後輩も参加していて、もちろん、幼稚園から高校3年までずっと同じクラスだった友人もおり、たいへん楽しかった。
私は、本当に久しぶりの再会だったが、田舎に残り、あるいは、戻り、そこで生活してきた者たちにある共有感は、それはそれで羨ましかった。しかし、もう、みんなアラフィフだ。
帰省の前にカメラのキタムラへ行きSIGN写真茶話会での写真をフォトブックで注文してきた。
編集端末に向かいソフトの制限の中であれこれ試していたら2時間近くかかった。それでも枚数やレイアウトの制限を超えられず、ちょっと残念な部分もあった。でも、今年度でかたちにしたかったので、注文した。
フォトブックのタイトルは「聴こえてくるもの」
SIGN写真茶話会のお師匠さんから「かたちにすることで次のテーマが見えてきましたか。」と問われ、ああ、そういうふうに考えていくのか、と思った。
聴こうと思えば聴こえるものはたくさんある、聴こうとしなければ聴こえないものもたくさんある。
今回は学校に目を向ける自分の声を聴きたかったのか、聴いてほしかったのか。
次は何に目を向けて聴こえてくるのものを求めるか。ゆっくり楽しもう。
2010年3月21日日曜日
主の祈り
先日「パーソナリティ障害の病理とその対応」という講座を聴いてきた。医者向けではなく教員や福祉関係者に語られた講座なのでわかりやすく話してくださった。「クライン派対象関係論」からお話ししてくださった。おそらく、学術的にはめっちゃややこしいのだろうが、私の頭で理解できたことをまとめると…
生まれた乳児と母親との関係では、乳児の中には母親との分離はなく、母親と一体の感覚である。だから、お乳が欲しい、と泣いたり、おしめが濡れた、と泣いたり、それに母親が応え、お乳をくれたりおしめをかえてくれたり、また、抱っこでよしよししてくれたり、そうやって機嫌がよくなっても、乳児は母親が自分にしてくれたから機嫌がおさまった、ではなく、どうやら自分で解決したかのように、ワーとなった機嫌を自分でおさめた気になっているらしい。
自分ではどうしようもない不機嫌(お乳が飲みたい、おしめが気持ち悪い)を母親に排泄し(投影性同一視)、その不機嫌を母親が取り入れ同一化し、理解し、解毒し適切な対応として乳児に返すことで乳児は機嫌をおさめている。この母親がする包容機能が重要と言われた。成長するとやがて母親的なものが自分の中に内在化し、内在化したものが包容機能を発揮し、不機嫌をおさめてくれる。
もう一つ、生まれたての赤ちゃんを母親のおなかにおくと、這い上がっておっぱいをくわえる。つまり、赤ちゃんは「おっぱいへの期待」というおっぱいに対する前概念を生まれたときに持っている。その後、母親のおっぱいに出会って「これがおっぱいだ」というひとつの概念をもつ。ところが、その後、ときにはお乳が出ないときのおっぱいもあり、欲求不満を生み出す悪いおっぱいもある。しかし、お乳が出るおっぱいも、出ないおっぱいも同じおっぱいであり、「おっぱいとはそういうものなのか?」」と「考え」が生み出される。欲求不満を生み出すおっぱいを悪いものと排除せず、「これはなんだろう」と考えることが重要である、とも言われた。つまり、物事には善し悪しがあり、悪はただ排泄、排除するだけでなく、「これはなんだろう」と考えることが必要、ということだ。
パーソナリティ障害など病気になる人は、成育歴にその原因があるとは言われていない。しかし、パーソナリティ障害の方にはこの、自分にとってのやっかいごとをおさめる包容機能や考えることに困難さがある、と言われた。他に「対象喪失の経験」ともあわせて説明され、とても興味深かった。
私のところには、調子よく問題ない、という親子は来ない。なんらかの難しさをもっている家族が相談にくる。つきつめると、包容機能と考えることを、私がお手伝いできるか、どうかになる。そう考えたと同時に、神さまとの関係を思い起こされ、感謝した。
おっぱいの話のように、神さま、という前概念が人間にはある。しかし、わかっているわけではないので欲求不満を生み出すように感じる”神さま”のときもある。その”神さま”を排除するのではなく「なんなんだろう」と考えることが大切である。
また、自分でおさめられない不機嫌を、神さまによっておさめていただいた。神さまの恵や慰めがどんなものかわからないときは、自分で乗り切った、不機嫌をおさめた、ような気でいたが、まさに神さまの包容機能で、おさめさせていただいてきたのだ。
今は、自分でやっているのではなく、神さまに投げかけ解毒していただいて返されたもので、自分をおさめている、と少しは思えるようになってきた。
ヨブ記を読んでいるが、まさにヨブが自己の中では解毒しきれない困難さを吐き出したとき、3人の友も包容機能をはたせずにいた。神さまは、その3人の問題も含め、ヨブがその友人のために祈ったとき、全ての解決、解毒を完成された。
研修などでこういう気づきを与えられるとき、神さまからおかれた職場と教えられ感謝だし、そうでないとやってられない、と思う。
主の祈りの前のみことばは
あなたがたがの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなりさない。
とある。神さまの包容機能を求め祈るときも、この関係こそが全てのポイントとと思う。
生まれた乳児と母親との関係では、乳児の中には母親との分離はなく、母親と一体の感覚である。だから、お乳が欲しい、と泣いたり、おしめが濡れた、と泣いたり、それに母親が応え、お乳をくれたりおしめをかえてくれたり、また、抱っこでよしよししてくれたり、そうやって機嫌がよくなっても、乳児は母親が自分にしてくれたから機嫌がおさまった、ではなく、どうやら自分で解決したかのように、ワーとなった機嫌を自分でおさめた気になっているらしい。
自分ではどうしようもない不機嫌(お乳が飲みたい、おしめが気持ち悪い)を母親に排泄し(投影性同一視)、その不機嫌を母親が取り入れ同一化し、理解し、解毒し適切な対応として乳児に返すことで乳児は機嫌をおさめている。この母親がする包容機能が重要と言われた。成長するとやがて母親的なものが自分の中に内在化し、内在化したものが包容機能を発揮し、不機嫌をおさめてくれる。
もう一つ、生まれたての赤ちゃんを母親のおなかにおくと、這い上がっておっぱいをくわえる。つまり、赤ちゃんは「おっぱいへの期待」というおっぱいに対する前概念を生まれたときに持っている。その後、母親のおっぱいに出会って「これがおっぱいだ」というひとつの概念をもつ。ところが、その後、ときにはお乳が出ないときのおっぱいもあり、欲求不満を生み出す悪いおっぱいもある。しかし、お乳が出るおっぱいも、出ないおっぱいも同じおっぱいであり、「おっぱいとはそういうものなのか?」」と「考え」が生み出される。欲求不満を生み出すおっぱいを悪いものと排除せず、「これはなんだろう」と考えることが重要である、とも言われた。つまり、物事には善し悪しがあり、悪はただ排泄、排除するだけでなく、「これはなんだろう」と考えることが必要、ということだ。
パーソナリティ障害など病気になる人は、成育歴にその原因があるとは言われていない。しかし、パーソナリティ障害の方にはこの、自分にとってのやっかいごとをおさめる包容機能や考えることに困難さがある、と言われた。他に「対象喪失の経験」ともあわせて説明され、とても興味深かった。
私のところには、調子よく問題ない、という親子は来ない。なんらかの難しさをもっている家族が相談にくる。つきつめると、包容機能と考えることを、私がお手伝いできるか、どうかになる。そう考えたと同時に、神さまとの関係を思い起こされ、感謝した。
おっぱいの話のように、神さま、という前概念が人間にはある。しかし、わかっているわけではないので欲求不満を生み出すように感じる”神さま”のときもある。その”神さま”を排除するのではなく「なんなんだろう」と考えることが大切である。
また、自分でおさめられない不機嫌を、神さまによっておさめていただいた。神さまの恵や慰めがどんなものかわからないときは、自分で乗り切った、不機嫌をおさめた、ような気でいたが、まさに神さまの包容機能で、おさめさせていただいてきたのだ。
今は、自分でやっているのではなく、神さまに投げかけ解毒していただいて返されたもので、自分をおさめている、と少しは思えるようになってきた。
ヨブ記を読んでいるが、まさにヨブが自己の中では解毒しきれない困難さを吐き出したとき、3人の友も包容機能をはたせずにいた。神さまは、その3人の問題も含め、ヨブがその友人のために祈ったとき、全ての解決、解毒を完成された。
研修などでこういう気づきを与えられるとき、神さまからおかれた職場と教えられ感謝だし、そうでないとやってられない、と思う。
主の祈りの前のみことばは
あなたがたがの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなりさない。
とある。神さまの包容機能を求め祈るときも、この関係こそが全てのポイントとと思う。
2010年3月13日土曜日
主のまなざしの下で
今日は午後から発達障害に関心がある保護者10数名にお話しする。1月に依頼があったところから再度依頼があり、別のグループにお話しすることになった。「好評でしたので…」と言っていただいたけど、実情は講師選択に困り…だろう。前回、とてもよい経験になり、できればもう一度と願っていたので、依頼があり、話せることを楽しみにしている。感謝。
常日頃、学校の先生は子どもを人質にとっているから、といじわるなことを言われるが、前回、私がかかわってない子どもらをもつ保護者らに話すと、実に遠慮ない感想や意見が出た。「ああ、直接担当していなければ、こういう感じで話されるのか…う~ん、確かに人質?にしているとしていないでは違うかな。」と内心思った。さて、今日はどんな感じになるか。
今日の予定は1月ほど前に決まったが、今週は実にいろいろあった。そのいろいろを経て、今日私はお話させていただく、というスタンスを素直に出したい。自分が受け持つケース(子どもと保護者)に向き合うことには、必ず自分を見つめ直す作業を伴う、と話してくださった先輩がいた。実に、その通りと思う。ケースについて語ると、語るその人自身が見える。それは隠しようのないものだ。
今週、担当するケースに向き合う中で、やはり自分自身を見つめ直された。この自分を見る、というやっかいな作業を、素直にシンプルにやろう、と思えるのは、主のまなざしの下で行うこと、と思えるからである。
私は、Ⅱサムエル16章にあるシムイののろいを受けるダビデのシーンが好きだ。「これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。」「主は私の心をごご覧になり、…私にしあわせを報いてくださるだろう。」自分の情けなさや愚かさに気づかされようとも、主にうつる自分には望みが与えられている。主に対して素直で単純でいたい。
お話しするテーマは「愛着の形成と人間関係の形成」
前回「先生のお話では、発達障害の子の問題は親の子育てのせいではない、と言われるのに、親の責任と言われているように思いました。」と正直に話してくださった方がいた。
今日は「親の子育てのせいではない、が、親の責任がないわけではない、親は子どもに与えるだけでなく、たくさんのものを受けている、その関係が築きにくい親子のしんどさを再考しましょう。悪者さがしではなく、どんなしんどさに向き合っていくのか、どんな慰めや励ましが必要なのか、再考しましょう。」というのが、メインテーマだけど。さて…ここからあとは、お楽しみ。主の導きを感謝します。
常日頃、学校の先生は子どもを人質にとっているから、といじわるなことを言われるが、前回、私がかかわってない子どもらをもつ保護者らに話すと、実に遠慮ない感想や意見が出た。「ああ、直接担当していなければ、こういう感じで話されるのか…う~ん、確かに人質?にしているとしていないでは違うかな。」と内心思った。さて、今日はどんな感じになるか。
今日の予定は1月ほど前に決まったが、今週は実にいろいろあった。そのいろいろを経て、今日私はお話させていただく、というスタンスを素直に出したい。自分が受け持つケース(子どもと保護者)に向き合うことには、必ず自分を見つめ直す作業を伴う、と話してくださった先輩がいた。実に、その通りと思う。ケースについて語ると、語るその人自身が見える。それは隠しようのないものだ。
今週、担当するケースに向き合う中で、やはり自分自身を見つめ直された。この自分を見る、というやっかいな作業を、素直にシンプルにやろう、と思えるのは、主のまなざしの下で行うこと、と思えるからである。
私は、Ⅱサムエル16章にあるシムイののろいを受けるダビデのシーンが好きだ。「これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。」「主は私の心をごご覧になり、…私にしあわせを報いてくださるだろう。」自分の情けなさや愚かさに気づかされようとも、主にうつる自分には望みが与えられている。主に対して素直で単純でいたい。
お話しするテーマは「愛着の形成と人間関係の形成」
前回「先生のお話では、発達障害の子の問題は親の子育てのせいではない、と言われるのに、親の責任と言われているように思いました。」と正直に話してくださった方がいた。
今日は「親の子育てのせいではない、が、親の責任がないわけではない、親は子どもに与えるだけでなく、たくさんのものを受けている、その関係が築きにくい親子のしんどさを再考しましょう。悪者さがしではなく、どんなしんどさに向き合っていくのか、どんな慰めや励ましが必要なのか、再考しましょう。」というのが、メインテーマだけど。さて…ここからあとは、お楽しみ。主の導きを感謝します。
2010年3月6日土曜日
愛情というのは
「愛情というのは、介入しないことか…」です。介入せずに保護して、その相手の中に「なにか」が育つのを待つというのが愛情か―と思いました。あまりにも素っ気ない結論ですが、それが一番私を安心させ、納得させる結論でした。
『人はなぜ「美しい」がわかるのか』橋本治 より
私は、情緒障害通級指導教室に務めている。言語に関する通級教室に比べると全国的に数は少ない。情緒障害の専門機関だから心因的・心理的なことについて専門的でないと、「ダメ」と思う人もいる。
来年度は、バウムテストや家族構成画など描画に関する研修を持つ。先日も「ここは、ロールシャッハができる人がいないでしょう。」とバウムテストも家族構成画もようわからん私にいう人がいた。
バウムテストも家族構成画もロールシャッハもできるというあなたが、私より共感的に子どもとかかわれますか?と言ってやればよかったけど、言えず、知らん顔して聞き流すのが精一杯だった。ああ、くやしい^^ できないよりできた方がいいかもしれない、勉強しないより勉強すべきです。でも、それが子どもや保護者とのかかわりにおいて埋められないものの代わりにはならない。子どもとのかかわりを深め豊かにするものならよし。子どもとの溝、つまり埋められないものをそんな専門用語の知識で埋めても、誰も幸せにできない。
この種のテストには、なんとも言えない毒が含まれていて、その毒を有効に変えられれば効用もあるが、毒の効用だけ残した、ということもある。その自覚なく、やたらテストをしたがる人がいる。薬は医者の処方で出される、この種のテストも信頼できる医者の処方?治療?の中で行うべきもので、中途半端な勉強の者がやって、あれこれ言うことの危険性を強く感じる。臨床心理や特別支援教育でも、専門バカがどれだけ人を傷つけているか。専門家気どりの人に「そんなわけのわからんもんはいいです!」と感情的に言っているだけと思われないように、私なりに説明できることばを持ちたい。いまさら勝てないしそんな勝負で勝つ気もないけど、知識の量で勝負でなく、ボクシング対相撲ぐらい、リングにいるつもりの相手に「えっ、土俵にあがってたん!」とうろたえさせ、張り手と押し相撲で勝負をつけられたら…ケンカ上手になりたいな、と思う^^今日この頃です。
朝、出勤して仕事場にいると、昨日ドールハウスで遊んでいた小3の女の子の”あと”に、はっとした。首をつったようにぶらさがるぬいぐるみと、そんなことに知らん顔で椅子に座るうさぎの人形。朝日の中で、見過ごせない異様さを感じて撮った。その後、ぶらさがったぬいぐるみだけ取り除いた。
バウムテストも家族構成画も勉強します。でも、それは、「介入せずに保護して、相手の中に『なにか』が育つのを待つ」ための、私の努力である。その子の何を保護してあげるべきなのか、相手の中に「なにが」育っているのか、ふさわしく言えるように、自分自身が専門バカの的外れなことばづかいにならないように、本当に気をつけたい。
カチンくる、むかつく、と、私を苛立たせる人は、私の中であいまいにしたままのものを明確にしてくれる。なんで腹が立つんだろう、それはこうなん違うんか、と考えていたら、大事なことを気付かされる。そいういう意味で感謝しなくっちゃ、とも思う。
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