2010年11月27日土曜日

みつめて


こうして並べると、遊んでばかりで一体どこが仕事なの?と思われるでしょうか。

先日は「ポケモン研究をしてもらわなくっちゃ。担任の先生にそれを望まないけど、通級の先生には…」とドクターから言われた。ポケモンかあ…であるが、まずはテレビを観ることにしている。

こんなふうに下をみていて、頭に砲弾が降ってきたらかないません。

日常と報道されることを乖離させてはいけない。

2010年11月21日日曜日

これは、すごい

昨日は、認知行動療法の立場から子どものうつの予防と対応についての公開講座へ行った。
古典的?な森田療法からもお話があり、それはそれで面白かった。
「子どもの自発性を育てるのには"遊びと体験"が大切」だそうな…。
他にも「健康な生活をすれば、心も健康になる。」「教師は”得意さがしと勇気づけ”が肝心。」など、ごもっともごもっともと思うことが丁寧に話された。
学会とかになると、我がところが一番で他はあかん調で進められ、辟易することが多い。
ある研修で、「きゅうり」とか「ラッパ」などの特殊音節の表記ができない中3の子を3ヶ月の指導で改善した(習得させた)大学の先生が「学校の先生方は9年間何をしておられたんですか。」と言われた。
カチンときた私は
「特別支援教育の専門であるあなたのような立場の方が、学校の教師の仕事をそんなふうな言い方で言い放つから特別支援教育は浸透しないのだ。分かったつもりでいないで、3ヶ月で習得させる指導を9年間持ち込めなかった学校現場を見つめ直し再考してださい。それは専門家であるあなた自身の力不足とも関係しているでしょう。特殊音節の表記の指導はできなくても、学校がその子に体験させたものの価値や量を軽く扱わないでもらいたい、専門家の学校教育をなめた発言が、どれほど混乱をもたらしているか自覚してわきまえてほしい。」
と満場の会場で発言したら、…そうです、カチンときただけでその時何も言えなかった私は忘れられず、何にカチンときたのか、何年も繰り返し考えていました。
学校現場の我々は、よいと思われるものを子どもに合わせ取り入れればよい、所詮、方法論であり、本質的なことは子どもが育つであって、学会や主義や理論の正当性や優位性を示すことではない。
公開講座の前に西宮市立の小学校の図工展を見学に行った。入口の階段から展示され体育館はどえらいことになっていた。BGMも流れ、浅田さんや梅佳代さんの写真展のような○○パーク的な楽しさだった。
ついつい一つ一つの作品にある子どもの様子に夢中になってデジカメで撮りまくった。
もっと図工展としての全体に私的に浸りたかったが、時間がなく出なければならなかった。
帰宅して写真を見ると、おしいことをしたな~と。
図工専科個人の思いや力のすごさだけでなく、これだけのものを協力する職員の力量にも感嘆する。
公立学校教育は、まだまだ底力がある。

2010年11月16日火曜日

分岐点

13日に音楽会が終わった。

直接子どもを指導するわけでもなく、当日ビデオ係で参加する程度にもかかわらず、加齢とともに涙もろくなったとはいえ、こんなに泣けた音楽会は初めてだった。

4年前にこの学校へ赴任したときは「なんてぬるい、いい加減な指導をしているんだ…」とびっくりした。
案の定翌年には子どもの荒れが噴出し、たいへんなことになった。今までのいい加減な取り組みのツケを負わされているように感じた。子どもの荒れや保護者の訴えに振り回されながらも「急によくしようとしても無理。2、3年かけて学校を変えよう。」と励まし合って対応していたが、私自身、よくなった学校のイメージを抱きにくかった。それでもそう言って地道にやるしかなかった。

音楽会前日に3年前からの音楽会の記録ビデオを見直していた。当時を振り返り、誰が悪かった、という話では正しく捉えられないものがあると思った。教師も子どもも保護者も怠惰な流れに知らず知らず流され、荒れをゆるしてしまう。この荒れを生む悪しき流れは、通った者でなければ気づけない分からないものだ。人から教えられるものではなく自らの経験でしか学べない。

子どもらの演奏はすばらしく、「勝った、勝った」と思いながら聴いていた。この悪しき流れからの勝利のように思った。3年という年月がなければ育たないもの、学べないものがある。

エンディングの歌を歌う何人も6年生が泣いていた。それだけでなくギャラリーから一緒に歌う5年生の子も泣いていた。保護者は体育館の外で花道をつくり、出てくる子どもらを待って拍手を送った。最後の最後にこっそり出る私にも拍手をくださった。

子どもらの涙や保護者の方の拍手を見て、この3年、荒れる子どもらを見てしんどかったのは教職員だけでなく、そういう校内で過ごさざるを得なかった子どもらも、それを見守る保護者も、ことばにできないしんどさがあったんだな、と気づけた。そういうしんどさや重苦しさから解放された喜びの拍手のように感じた。

この世には様々な義や美がある。それらには全て、霊的な型があると、つくづく教えられた。
この世に示される義と美から、神を賛美し感謝し、いっさいの栄光を神に帰すのがふさわしい。
それを神以外のものに栄光を帰そうとするとき、悪しきものが生じる。
この分岐点こそが鍵と思う。

平凡で、淡々と過ぎる日常の中で、この分岐点を静かにおぼえ、当たり前の生活を送りたい。

2010年11月9日火曜日

リアリティ


それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。(ルカ4:6)
国々のいっさいの権力と栄光は、サタンの思うままのようだ。
先日、Saltさんのリコーダー講座にお邪魔した時、雑談の中で「無名のアーティストが売れるかどうかを見抜くポイントは、曲のよしあしではなく、声やルックス(ヴィジュアル)だ。曲は他のものが作ればいいし、歌もうまくなる。」と言われていた。…なるほど、華とか、オーラとか、確かにそういったものを放つ人がいる。
別に芸能人やプロスポーツ選手や政治家でなくても、人を惹きつけるものを持つ人がいる。
そいうった惹きつけるものに、どれだけのリアリティがあるのだろう。
きつねやたぬきにだまされる、と同じように、まやかしにあっている気がする。
サタンから権力と栄光を受けて…、というと、おとぎ話のようだけど、そんな話に逆に妙なリアリティを感じる今日この頃だ。
私のは身の丈の生活の中でキリストのいのちを教えられ、そのリアリティにいたい。

2010年11月3日水曜日

おめでとう

今日は姪っ子の結婚式。

私の強烈な、それはもう強烈な姉の子でありながら、実におっとりと柔和に育った。
幸せになってほしい。

しかし、自分の娘が結婚するときは、どんな気持ちなんだろう。家庭を築き幸せになってほしいが、私たちの家庭を離れ、見知らぬ男だったやつと幸せな家庭を築く… う~ん、想像するにかなり複雑。
今日も冒頭で司会者が二人の出会いやプロポーズのときの話をしていたが、自分の娘なら「ああ、聞きたくない!」と思ってしまった。 …私はかなりバカ?!

久しぶりに会った叔父に「もうしばらくは家族のため、その後は自分のために生きなさい。」と言われた。「信心とは別だが…」と四国を歩いて巡礼していることを教えてくれた。だんだんとただ歩くという境地になるそうだ。もう一人の叔父は、3週間かけてバイクで北海道旅行をしたそうだ。

別に家族のためだけに仕事や何事かをしているわけではない。「誰のため仕事で苦労してると思っているねん。」などと家族に対して思うことは全くない。以前の仕事ならそう思っていただろう。
それはともかく自分の時間を大切にすることはいいな~。
リタイヤした叔父たちには負けていられない。

姪っ子よ、おめでとう、もっともっと幸せになるんだよ。