2010年12月31日金曜日

さて、どうなるか

元旦から岡山の田舎に帰省する。

実家の手前1㎞ほどの道に雪があることが多く、チェーンは必需品だ。
3年前に買ったチェーンが昨年はまらず、その前の年ははまったのに…オートバックスへ持って行って店員のお兄ちゃんがジャッキであげてもダメで「買うか!?」と思ったが、3万円近くするのを見て断念した。今年は、どえらい天気になりそうで、またチェーンを出した。やっぱりダメで、また、3万円近い、安いものでも1万円…という値段を見て困惑していると店員さんに声をかけられた。事情を話すと
「一度、チェーンを持ってきてください。もったいないですし…」
「昨年もこちらでしていただいたのですがダメで…じゃ、またお願いします。」
あかんやろ、と内心思いながら、持って行った。
ナイツのつっこみ役のようなお兄ちゃんが取り付け始め、なんと5分ほどで付いたではないか。ビックリ!
こんなふうに、とコツを聞いたけど、どうにも自力でつける自身がなく、油圧式のジャッキを買っておいて浮かせば確実かも、と買いに行った。すると3千円ほどのジャッキが棚にない。
チェーンを相談した店員さんに言うと「いりませんよ、大丈夫。ジャッキであげて付けるためにひっぱったりしてジャッキがはずれると危ないですよ。いりません。」と言われてしまった。
ジャッキで楽々付けた経験者の私は、渋々帰宅し、自力で付けるのに再挑戦。
やってみると今度はすんなり付いた。いや~感謝、感謝。
実に良心的なオ^トバックスの方のおかげでチェーンもジャッキも買わずにすみ、お金を使わずにすんだ。ここに至るのに時間はかかったが、なんとも嬉しかった。

雪の心配をしながら帰省するのは大変だけど、それを年に1回でも雪道を走る経験をするとき、と考えている。やらなければできないことはいろいろある。バイクで市街地を走るのも慣れなければ結構恐ろしい。左車線を走っているとタクシーなどお構いなしに客を拾おうと停車しようとする。タクシーの後ろは走らない、どうしてもの時はタクシーだけでなく歩道の様子にも目を配る。
経験するから気が付けることが私の場合多い。

無駄と思うか、経験したからこそ学び得た、と思うか…些細なことだけど大切なことと思う。

2010年12月29日水曜日

ええことをしなさった、と自分に

昨日は大掃除パートⅠ

網戸を洗い、窓を拭き、終わり。午後から雨と予報はあったけど、午前中は温かく、やってしまうことにした。
狭い土地に建ってる木造で3階建てで、窓の枠に座ったり2階の屋根に立ったりして3階の窓を拭いていると、こういう身のこなしはいくつまでできるんだろう、と思った。
今朝の朝日新聞に西武を解雇された工藤投手の記事があった。
あきらめる、ということがわからない、限界は自分が決めつくるもの、といったコメントと、力勝負では若い者にはかなわない、でも、投球術ではまだまだ…というコメントには、単純にすごい、と思う。

若いとき一人暮らしをしており、部屋の片づけは自分がやらなければ誰もしてくれない。 そんなにきれいにしているわけではないが、一応整理し片付けないと落ち着けない。
照明の傘や冷蔵庫の上を拭いたり、自分の部屋?の片づけをしたり、今日明日ちょっとずつする予定だ。そうそう明日は義父がブルーレイをくれるということで、家族で行ってごはんをご馳走になりブルーレイまでもらう、ありがとうございます。設定のためリビングのテレビまわりの掃除は大晦日になるか…。

大掃除ができ淡々と年末を過ごせることに感謝する。
工藤選手の心意気を、私の淡々とした生活にも見習いたい、80になって窓枠に軽々あがったり屋根に立ったりはしなくても、台を使って網戸をはずし窓を拭き…同じやり方でなくてもやりようはいくらでもある。
できない、しない、とやめたらそこまでだ。

神さまから与えられているものを大切にし、日常をしっかり楽しみたい。

2010年12月28日火曜日

めっちゃ!おいしいチーズケーキ

昨日は彷徨坊主さんの学校に、ちょいお邪魔した。
Saltさんの長女が発した名言「学校徘徊」の一つで八尾市まで徘徊の足をのばしてみた。

直接的には、2年生のあるクラスの男児について話し合うためだったが、クラスの他の子の絵も見せて頂き、そのクラスの中にいるその子について話し合わせて頂いた。上の絵は、私の学校の2年生の絵で、昨日のクラスの子とは関係ない。

たいしたお話もできず、申し訳なかったな~と思いながら…、私は子どもについては勿論、その学校や担任の先生に関する事前情報がないところで子どもの絵や字からだけで読み取れるものは、どんなものか、体験できよかった。

担任として、毎日向き合っていると当たり前でいちいち意識などしていられないだろうけど、一歩引いた視点で見ると、当たり前だが、子ども一人ひとりは実に多様なものを抱えている。見え過ぎると「見えすぎちゃって困るの~♪」とばかりに、担任として授業をし、学校生活を子どもらに送られるのはしんど過ぎる。見抜くべきだけど、見抜いてもぼやっと過ごせなければやっていけないだろう。何気ない日常でちょっと声をかけ手をかけるタイミングが的確になったり、何かあったとき、「なんでや」とうろたえず、さもありなん、と支援できる思慮を日頃から持ったりするお役にたてれば、私の立場ではいいのだけれど。

冒頭の2枚の絵は、なかなかの迫力である。
お話の絵を描く授業で、化け猫を描いているので、気持ち悪かったり怖かったりしていいのだけれど、ちょっと違う怖さや不気味さを感じる。
上の絵の子は、構図や形のとりかたも上手く、知的にも十分あるのだろう。でも、この激しさはどこからきているのか、どんなふうに育つか、とっても楽しみ。このエネルギーを吐き出させてあげたい。
下の絵の子は、上の子に比べれば知的にやや低い。化け猫の表情(目と口)とその配色(青と紫のムラのあるコントラスト)になんとも言えない恐怖?不安?を感じる。胴体の汚い配色の重ね塗りも否定的で気になる。勝手な想像だけど、彼はそんなストレス源と向き合っているのだろうか?それは彼の外にあるのか内にあるのか…できる見守りや声かけをしたい。

子どもの絵には投影がある。
見えるもの、それだけでそれ以上やそれ以外のものはない。それ以上のものやそれ以外のものは、見る私が勝手に思い描くものだ。はずれていればチーンで勝手な決め付けでゴメンナサイ、近いものがあってもそれをどう活かせるかが問題である。そもそもこんなことを何のためにするのか、その動機は厳しく問われるべきだ。動機が問われずして活かされるものは何もない、いや、害はある。
上の2枚の子にしても、学校生活は平穏にしているなら、あれこれ子どもを触るべきではないと思う。特に下の子を「ストレスはないか?」とばかりに問い質すと、ぜったいよくない。先生のまなざしが変わることが何よりの支援ではないか。でなければ、私の情報も私自身も害にしかならない。

数を見れば見るほど、ハウツウは身に付いてくる。でも、動機は身に付かない。自分が問われ続けることでしか、動機は示されない。
子どもの絵⇒その子自身⇒見つめる自分、となるけど、冬休みは、もう一校の学校の絵をじっくり見てみる。こういうふうに自分の仕事が整理されるのに、いろいろな人の影響があった、数人の顔がすぐに浮かぶでしょ^^

彷徨坊主さん
チーズケーキ、めっちゃ、おいしかったです。食いしん坊の下の娘がすぐ「一人3個ずつやね。」と^^
そう言っといて4個ぐらい食べるのですが…。
ケーキだけでなく「こいつ、ちゃんと言いよんのか。」と^^気を遣わせてスミマセン。
ケーキはいいです、KARAか少女時代にしてもらって意外と近いので、またチャンスをください。

2010年12月26日日曜日

「クリスマスの約束」という番組

24日放送の「クリスマスの約束2010」という番組を今年も観た。

63歳だったか小田和正がメインでいろいろなアーティストとクリスマスコンサートをする。
クラシックの巨匠がすごいジイさんになっても活躍するように小田和正は80くらいでもラブソングを歌うんだろうか。想像すると、ちょっとキモイ、イタイ感じもするけど…番組ではまだまだかっこいい。
今年は山本潤子が「冷たい雨」を歌い、ハイファイセットでもこの歌が一番好き、というか「フィーリング」とかは大嫌いでハイファイセットはこの曲と他2、3曲しか聴かないけど、とにかくよかった。ユーミンが歌うより断然いい、私の中では。

キロロの玉城千春さんが今年は出ていて、いい話をしていた。
彼女は声が出ない時期があり、そのときは、歌うことも歌を聴くことも嫌だったそうだ。
そんなときは人の話さえも受け付けられなかった。
そんな経験を通し、人の話が聴けない人が、歌を聴くことによって心がほぐされ、人の話を聴けるようになれば…そう願ってもう一度歌いたい、と。

事情はどうあれ、人の話を受け入れられないときがある。
音楽なのか、絵画なのか、自然なのか…写真なのか、ことばによらないもので、ことばを受け入れる準備がなされる。そういうことは、非常に、ヒジョーに大切なことと思う。

小田和正が音楽を通じて世代の違う人間・アーティストと一緒に楽しんでいるのは、単純にすばらしい。
NHKの番組でもなんの楽器だったかクラッシクの巨匠が若い演奏家に厳しいことを言い、その後「自分はこの音楽に全身全霊で仕えてきた。その力がある者に次に仕えることを求めるのは当たり前。」といったことを言っていた。
指導とか教えるとかではない、育成の在り方、と思う。

どうせなら、こんなに面白くて楽しいことを…やろうよ、と言える者でいたい。
もちろん、一人であっても面白がって楽しみ大満足した上で。

しかし、「クリスマスの約束」って番組の主旨はなんだ?
クリスマスが過ぎ「クリスマスの約束」を味わいたい。

2010年12月23日木曜日

北山修さんの「最後の授業」

今日は、Y.B.Mさんが山口まで納品に行かれた帰りに、1月に神戸でしていただく写真茶話会の下見のために、わざわざ私の勤務校によってくださった。
このいつのシリーズかわからなない合体ロボの横にY.B.Mさんが立っていたのは、とても不思議だった。

以前も取り上げたように思うが、
北山修さんは”帰ってきたヨッパライ”を数人の知人に「面白い曲ができたで」と紹介し楽しむつもりでレコード化したのに、テレビに出て、ただただ”帰ってきたヨッパライ”を歌うことになった悪夢のような…こんなことは耐えられないとマスコミから一線を引き、加藤和彦たちとは違う歩みを選ばれたらしい。
九大の最後の授業でも臨床心理を志す学生に
「どんなにたくさんの人がいようと、我々は一対一の関係です。」といったことを言われていた。

つくづく一対一の真実さを感じる。

学校は、1クラス30人前後の子に一斉に教え、いかに効率よく学ばせるか、を常に問う。
個別や小人数を相手にする私の仕事でさえ、効率のよい効果のある、そして、あわよくばAさんにもBさんにもCさんにも有効な指導を見つけ、実践しようとする。
一人ひとりなんて非効率で、時間や労力を要するものを、なんとか避けられないか、と知恵をついつい絞ってしまう。

そうして大事なことを見失い、最悪のことは、その失敗の責任を子どもやその家族に転嫁することだ。

効率を追い求める学校システムに大切な警鐘としてか、その愚かさを嘲笑ってか、どちらかと思うが、うまくやろうとする学校システムの中から思いっきり非効率で時間も人も要求するやっかいな労力がかかる事態が多発している。
おかげで私の仕事は空きがないほど相談が入る。

しかし、いつも不思議と自分がこれは受けきれない、と感じるほどの相談件数とはならない。
神さまが、私にゆるす方々・ケースだけが、私に来ている、と教えられる。

私は、神さまにゆるされ出会った方々との関係だけを大切にしていればいい。
それを自分の実績として関係ない第三者の多数に認めさせようとしたり、数や評価にこだわったりすると、あっという間にクルクルパーなことになる。
同業者に中で、あきらかな違和感を感じる者にある異物は、自分と出会う方々・ケースとの関係以外の不特定多数を意識する心だ。

Y.B.Mさんに無理をお願いしてしていただく写真茶話会は、私とY.B.Mさんとで楽しむものであり、私と参加者一人ひとりとの関係性を楽しむためのものだ。
あっという間にクルクルパーになりがちな私はこのことを肝に銘じたいと思った。

今日は朝食として、Y.B.Mさんに手作り目玉焼きを食べさせてしまった。
思えば学生時代の下宿で彷徨坊主さんも食べ、Saltさんも食べた塩辛いだけの目玉焼き。
腐れ縁が続いているお二人のような目にY.B.Mさんも…。

神さまにゆだねられていることを、しみじみ味わい楽しみたい。

2010年12月18日土曜日

気づき

子どもが学校へ行く、それは当たり前のことである。
しかし、本当に「学校へ行く。」という価値観は正しいのか…。

学校へ行けない、どうすれば学校へ行けるか、と保護者と話し合いながら、学校(その先にある社会)へ適応する、とはどういうことか、自問していた。
社会に帰属するとはどういうことなんだろう。
朝、起きて学校へ行く、チャイムが鳴ると教室へ入る、30人前後の人と一緒に決まった時間内に食事をする、それらのことが当たり前にしなくてはいけないこと、と思える子はいい。何がしかの理由でそんな当たり前が非常な困難さを感じる子らがいると、なぜそうしなければいけないのか、と考えざるを得ない。また、そんな生活の中で同年齢の子や先生たち大人と関係を築いていく意味…。
私は私、これでいいのだ、と思える自立への道筋は学校にある約束事に追従しているだけでは得られない。しかし、じゃあ”学校”など関係ない、というのではない。
真に人格的に自立していく者は、学校とも、もちろん社会とも健全に付き合える。
自立と依存、という関係性が正しくあり共存が生まれるべきところに、支配と被支配という関係性が持ち込まれ過ぎと思う。
私も適応が苦手だ。宴会の2次会など勘弁してほしい。「みんなで2次会に行きましょう。」なんて気持ちは共有できない。「こうしましょう。」「こうあるべき」なんて話の多くは支配的で「みんなで2次会に行くぞ。」くらい勝手な価値観の押し付けと思う。
自立と依存の関係性をはっきり意識できるようにし、支配と被支配の関係性にはきっぱりNOと示せるようにしたい。
押し付けられた価値観に適応できないからといって絶望しないで、抜け道を見つけ、「これでいいのだ。」と胸をはってやろう、私にもその伴走をさせてほしい。

2010年12月16日木曜日

永遠の0

百田尚機の「永遠の0」を読んだ。
零戦に乗り命を落とした祖父の生涯を孫がたどっていく物語だ。小説の形態としてはちょっと…とは思うが、あの時代を生きられた方々を知ろうとするには一読の価値がある本だと思う。
日本はどうなってしまうのだろう。
組織とか社会とかに依存し期待すると、おかしくなる。
しかし、そういったものに一切属さず生きることはできない。
「それは私に任されている」と言い放ちこの世を支配するものの手から解かれて生きるには、主を見上げる、つまり信仰しかない。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ43:4)
「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪をおもいださない。」(イザヤ43:25)
私の教室は、この社会でうまくいく、そんなことにとらわれず、全く違う価値観がある場所でありたい。
学校や自分のクラスに適応できない、言い方はどうかと思うが、この世に捨てられた(学校に適応できない)者が真に価値あるものを得る、とはちょっと福音的ではないか。
療育とか、何か改善するところ、と自分の教室を捉えていたが、学校組織に負けない教育的価値をもつところと胸をはりたい、と考えるようになった。
SIGN写真茶話会で自分の写真を見ていると、私の教室へ来る子や保護者への私の”ラブレター”としてまとめたい、と思えてきた。
私の2010年版SIGN写真茶話会写真集は、そんなものにしたい。

2010年12月5日日曜日

定年が…


定年が65歳になるという話が出ている。神戸市教育委員会が先進的に取り組もうとしているようで…。

えらいこっちゃ…、ですが、あれこれ考えてもだめだ。

神さまは最善をしてくださる、その一点だけが大切なことだ。