昔々、救われた頃は、大学の友人であり兄弟姉妹である同年齢の人者がたくさんいた。教会のことを「ここの教会は伝道者養成学校みたい。」と評した人もいたが、とにかく聖書を読む、学びをする、ということに熱心だった。
ついていけない私は苦労したが、あの頃の学びのおかげは随分とある。
朝、起きるとまずデヴォーション?静思の時?をもたなければ…と、ある種、脅迫観念めいて聖書を開いていた。そんなことが長続きするはずもなく、教会を離れ、聖書を閉じた。
いつからかわからないが、再び、朝、聖書を読むようになった。
そして、家庭が与えられ、この仕事になってから、日常を祈りつつ聖書を読むようになった。
教会に行ってなかったので兄弟姉妹の評価など関係なく、みことばを読み、みことばに支えられ、みことばに示されることを感謝した。
そういうみことばの味わい方や祈り方が、日常から教えられていった。
それは今も変わらない。朝、聖書を開き祈る。20分ほどの時間だけど感謝である。
家族や、仕事でかかわる人や物事を主に祈りたい。
祈り深い人をアピールしているのではない。そう書くこと自体チャンチラおかしくてホント恥ずかしい。切羽詰まるようなことがあるわけではないが、そうしたい不思議な迷い?戸惑い?が湧いてきている。
わたしにある”主のいのち”は生きておられる。”新しい人”を、また、教えられるだろう。
2010年6月26日土曜日
ちょっとまねをして茶話会を
通級指導教室で保護者に呼びかけ茶話会をした。
発達障害に関係する親の会はたくさんあるが、組織だって親の会にするといろいろ面倒でしんどくなるので、さらっと茶話会に。呼びかけも直前で5名の保護者だけ参加だった。でも、多すぎず参加者の方がゆっくり話していただけたのでは…と思っている。
あるお母さんが「立ち上がって発表する、って必要なんですか?ギーギー椅子の音がうるさいし、塾のように座ってはだめなんですか?」と言われるので「問題の答えを言える、という意味だけなら座って言えばいのですが、小学校の授業では、30人ほどの集団で学ぶ、という学習習慣の規律を育てる意味もあります。それは他者と協調・協力してといういわゆる社会性の学習でもあるので、立つ、教師以外に聴くクラスの子を意識する、他の子も話す子を見て聴く、といったことができるようになってほしいから、くどくど立たせています。」と説明した。
「まあ、言われる通り、してもしなくてもいいようなことは学校にいっぱいありますね。私は、男2人、女10人という山間の僻地の小学校で過ごし、音楽会もなかったし、設備的にプールもなかったので水泳指導など中学のプールを借りて年1、2回でした。採用試験に失敗して民間に勤めたときは、奈良と平安、どっちが前やったかな?とすっかり歴史も忘れていました。日々の業務には関係ないです。だから、しなくてもいい、とは言いません。でも、そんなものなので何を優先するか、を保護者の方が考えてあげないと、不要な劣等感で子どもがつぶされる心配がありますね。」と話させていただいた。
「子どもに、発達障害の特性があることを告げるべきか?」という話題もでました。「もう言っている」という保護者から「告げるべき?ならどう言えばいいのか?」という話もでました。
「わたしって何なんだろう?」と子どもが考え出した時を待ち、話し合ってはどうですか?
親も、医者も、教師も、かかわれる者が「わたしはなんで?」と考え出した子どもと一緒に話し合ってあげられれば、自分が自分を受け止められる、わたしは「これでいいのだ」と思えるように見守ってあげるために、と考えれば時期や方法は見つかると思います、とも話させていただいた。
その中でついつい、3年生の頃10円ハゲができて治療したりカエルの口に爆竹をねじ込んで殺していた子も、一応家庭も仕事も持ち、こうしてみなさんと一緒に話す一社会人になっている、と話した。カエルのくだりでは、お母さんたちも「えっ、大丈夫ですか?」と引かれてしまったが。
直接手を出す支援も必要、同じくらいほっておいて見守るという支援も必要かもしれません。
救われ19~23歳頃いた教会を離れ、30歳前後に今の教会の姉妹教会に行ったり行かなかったりが10年ほどあり、転居や仕事を通じての導きから今の教会に属し10年ほどになる。
人の組織としての教会には、何の期待もなく、8年ほど役員(執事)をしたのも、そういう役回りというだけ。今年からはそれも交代して頂いた。
仕事も3年受けた管理職試験を受けません、と意思表明すると「管理職としてはあんなことも責任となりやらなければいけないな~」と憂欝な気持ちで見ていた事も気にする必要がなくなった。ラクチン、ラクチン。
なんとなくその場の空気を読み「まあ、みこころでは…」と流すように私にある主のいのちを歩ませていたが、そういったものやことがなくなり…
してもしなくてもどうでもいいことをやめ、わたしって何?と考えるようになると、主の恵やみちびきはすでにあふれている、と祈ることからだな、と思わされる。
目に見える出来事ではなく、な~んでもない日常に主の恵みとみちびきを教えられ感謝したい。
明日も、心から主に感謝し礼拝するため教会へ行く。牧師先生のメッセージを聞くが、聞くためじゃない。聖歌も礼拝のプログラムも関係なく主に思いを寄せ礼拝したい。
発達障害に関係する親の会はたくさんあるが、組織だって親の会にするといろいろ面倒でしんどくなるので、さらっと茶話会に。呼びかけも直前で5名の保護者だけ参加だった。でも、多すぎず参加者の方がゆっくり話していただけたのでは…と思っている。
あるお母さんが「立ち上がって発表する、って必要なんですか?ギーギー椅子の音がうるさいし、塾のように座ってはだめなんですか?」と言われるので「問題の答えを言える、という意味だけなら座って言えばいのですが、小学校の授業では、30人ほどの集団で学ぶ、という学習習慣の規律を育てる意味もあります。それは他者と協調・協力してといういわゆる社会性の学習でもあるので、立つ、教師以外に聴くクラスの子を意識する、他の子も話す子を見て聴く、といったことができるようになってほしいから、くどくど立たせています。」と説明した。
「まあ、言われる通り、してもしなくてもいいようなことは学校にいっぱいありますね。私は、男2人、女10人という山間の僻地の小学校で過ごし、音楽会もなかったし、設備的にプールもなかったので水泳指導など中学のプールを借りて年1、2回でした。採用試験に失敗して民間に勤めたときは、奈良と平安、どっちが前やったかな?とすっかり歴史も忘れていました。日々の業務には関係ないです。だから、しなくてもいい、とは言いません。でも、そんなものなので何を優先するか、を保護者の方が考えてあげないと、不要な劣等感で子どもがつぶされる心配がありますね。」と話させていただいた。
「子どもに、発達障害の特性があることを告げるべきか?」という話題もでました。「もう言っている」という保護者から「告げるべき?ならどう言えばいいのか?」という話もでました。
「わたしって何なんだろう?」と子どもが考え出した時を待ち、話し合ってはどうですか?
親も、医者も、教師も、かかわれる者が「わたしはなんで?」と考え出した子どもと一緒に話し合ってあげられれば、自分が自分を受け止められる、わたしは「これでいいのだ」と思えるように見守ってあげるために、と考えれば時期や方法は見つかると思います、とも話させていただいた。
その中でついつい、3年生の頃10円ハゲができて治療したりカエルの口に爆竹をねじ込んで殺していた子も、一応家庭も仕事も持ち、こうしてみなさんと一緒に話す一社会人になっている、と話した。カエルのくだりでは、お母さんたちも「えっ、大丈夫ですか?」と引かれてしまったが。
直接手を出す支援も必要、同じくらいほっておいて見守るという支援も必要かもしれません。
救われ19~23歳頃いた教会を離れ、30歳前後に今の教会の姉妹教会に行ったり行かなかったりが10年ほどあり、転居や仕事を通じての導きから今の教会に属し10年ほどになる。
人の組織としての教会には、何の期待もなく、8年ほど役員(執事)をしたのも、そういう役回りというだけ。今年からはそれも交代して頂いた。
仕事も3年受けた管理職試験を受けません、と意思表明すると「管理職としてはあんなことも責任となりやらなければいけないな~」と憂欝な気持ちで見ていた事も気にする必要がなくなった。ラクチン、ラクチン。
なんとなくその場の空気を読み「まあ、みこころでは…」と流すように私にある主のいのちを歩ませていたが、そういったものやことがなくなり…
してもしなくてもどうでもいいことをやめ、わたしって何?と考えるようになると、主の恵やみちびきはすでにあふれている、と祈ることからだな、と思わされる。
目に見える出来事ではなく、な~んでもない日常に主の恵みとみちびきを教えられ感謝したい。
明日も、心から主に感謝し礼拝するため教会へ行く。牧師先生のメッセージを聞くが、聞くためじゃない。聖歌も礼拝のプログラムも関係なく主に思いを寄せ礼拝したい。
2010年6月19日土曜日
2010年6月16日水曜日
4泊5日の宿泊行事
兵庫県が独自に取り組んでいる義務教育の目玉に小学校の”
自然学校”(4泊5日の宿泊行事)と中学生の”トライやるウィーク”(就労体験学習)がある。
その自然学校の引率(前半の2泊3日分)に行ってきた。
写真は、登山に持参するお弁当。子どもが作ったかわいいのを一枚撮った。
15年ほど前に初めて引率で行ったときの子らと最近の子らでも変わってきている。
まず、夜、大人しく寝るようになった。寝かせてもごちゃごちゃ遊びだし、廊下に正座させて反省させる、なんてこともよくあったが、ここ数年、そんな必要もない。そして、身辺整理ができない子が増えた。登山にぐちぐち不満を言う、すぐ保健の先生にかまってもらおうとする、そういった子はかなり増えた。
ホームシックといっても、おかあさんが恋しいのか、単にゲームをしてテレビをみてスナック菓子を食べるテキトーな時間を過ごせないことが不満なのか、どっち?たいがいが身勝手な時間を過ごせない不満であって、家族を慕ってのホームシックとは違う、それを今のホームシックというなら、そうなのだろうけど。
もちろん、みんながみんなそうではない。「ずっといたかった!」という子もかなりたくさんいる。しかし、そういう満足の声より、ほんの小人数の子と保護者の不満が、いろいろ変えていってしまう現実がある。そういった不満に答えるのを「配慮や支援だ。」としては本当に必要で大切な「配慮を支援」を排除してしまいかねない。また、確かに教師の不手際もある。
いずれにしろ、いろいろ振り返させられる行事の一つである。
公立学校には様々な子がいる。市販の花火をみんなでしたくらいで「こんなの初めて、きれい!」という子もいれば、飯ごう炊飯で、やたら薪を入れて炎を出したがる子もいる。カエルを触る、虫を怖がる、なんでもいい、とにかく五感と身体で味わい学ぶ機会は貴重だ。
引率はめんどくさいことがいろいろあるけど、そういう子どもをみるのは楽しい。山を歩き、竹箸を作り、最少の薪でごはんとカレーを作る、と工夫するのも単純に楽しかった。自分で楽しもうとする子、何をやっても不満で人の足を引っ張ろうとする子、…子どもらと一緒にいて、幸せなる秘訣?は実に単純と思った。
今日は代休。平日にのんびりできるのが、またいい。
お昼は、パンにバターをちょっとつけて白ワインと一緒に食べる予定。パンもワインも全然詳しくないが、これがいい。おいしい。
2010年6月12日土曜日
いたずら
いい年をして…こどもみたいないたずらが好きで…。
こどもとホットケーキミックスでタイ焼きを作った。中身はあんこだが、梅干し入りのものも作った。
私のところに来る子らは、他の学校から来ている。私のところの時間が終わると自分の学校に行く。そこで担任の先生にお土産をもたせることがある。今日は作ったタイ焼きだが、担任の先生にくじを引かせ「はずれを引いたら梅干し入りのタイ焼きを食べてもらいますよ!」とやっておいで、と入れ知恵をした。もちろん?くじ3本は全部はずれ!
みえみえないたずらなので、ばれたら「ごめんなさい、かわいいいたずらです、こちらをどうぞ。」と渡しなさいよ、と教えている。
こんなことを、一緒に楽しんで笑ってくれる先生たちだと、連携をとる私もやりやすい。
「この忙しいのに、しょうもないことをして!」といらつかれたら残念。そう思われるのも、よ~くわかる。
まず、学校に食べ物を持ってきてはいけない。他の子たちが「なんで!」と混乱する。そして、休み時間といえ教師は次の授業準備や宿題をみたりでチョー忙しい。このてのことをこどもにさせるときは、私もいろいろ気を遣っている。
先生は、いたずらを面白がる人ばかりでもダメ、しょーもないことをといらつく人ばかりでもダメ、多様な人がいていいが、こんないたずらをこどもと笑うアソビ(隙間)を、学校に持たせてほしい。
忙しいのはよくわかるが、現場の先生たちへの私なりの投げかけでもある。
私は、こんないたずらを立派なソーシャル・スキル・トレーニングと大真面目で思っている。
指導の実践記録にまとめ、同業者に発表するのが今年度の目標だな~。
2010年6月5日土曜日
うまい!
私の職場のスタッフ紹介の掲示物を幼稚園の先生が作ってくれた。
ちょっと説明すると、私が勤める通級指導教室には幼稚部2名、小学部2名、中学部2名、計6名の教師がいる。幼児さんから中学生までが相談できるところとなっている。
ちなみに幼児さんの通級があるところは全国でも数少ない。早期発見・早期療育の重要さを謳いながら、その体制がとれない自治体のなかで神戸市はよくやっていると思う。
そもそも通級も文科省が認めていない時からやっていた。認めていないことを、つまり法的な制度がないときから教員をひねくりだしてしていたのだから、かなりの無理をしていた。そういう無茶ができた時代があったが、今はコンプライアンスがきつい。でも、現状にそくして無茶を賢くする気持ちがなければ、全くダメ!と思う。
これは梅雨時バージョン。春はもうひとつだったが、これは「いい!うまい!」と思わず撮った。
私が言うのもなんだが、ちょっとヘンな人ばっかりなのに、テルテル坊主になると、妙にカワイイ。クセのある人をカワイク見せる演出・工夫に感心した。クセの部分を強調するか、カワイクを引き出してあげるか、…奥深いと思う。コスプレやアイコラではこうはいかない。これ、ちょっとはまりそう。
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