
北山修を取り上げた「最後の授業」というNHK教育の番組を観た。録画していたので4話を一気に観た。
「帰ってきたヨッパライ」で一躍時代の寵児になった氏だが、1年ちょっとでマスコミから姿を隠し、その後は精神科医として活躍された。
家族や友人に聴いてもらおうと300枚だけ作ったレコード(帰ってきたヨッパライ)が、自分の手元を離れ、独り歩きしていったこと。自分が曲を作るときは、この人に、と極めてパーソナルなものとして作っていたのに、そのパーソナルを変えてしまうTVなどマスコミについて。パーソナルな世界を生きる精神科医、こっちのほうが絶対面白い、だからマスコミで生きることを辞めた、など前半2話で語られた。
後半2話は、精神科医として、セラピストとして、の内容になっていったが、母子の愛着関係など学んでいる私にも興味深い内容で、しかも平易なことばで解説されており、よかった。
4話の最後は九大での最後の講義での言葉
「いなくなるから取り入れられる、いなくなるのも教師の仕事です。私はこれで去ります。」
だった。
ああ、とじ~んときた。
愛着者のイメージが内に住む、内在化することが、愛着関係には重要である。
北山氏の言葉でいうなら、いなくなるからこそ愛着者のイメージを取り入れられる、内在化できる、ということである。まさに、その通り。いつもいつもお母さんがそばにいては、見えないものをイメージとして内に育てる訓練を必要としない。いないからこそ、見えないからこそ、内にイメージを育てるのだ。
主は「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」(ヨハネ16:7)と言われ、御霊によって私の内に住まわれる主キリスト・イエスについて話された。
主の真実を強く感じた。
私の仕事は、終わると成功、といったものである。
何がしかの困難や問題があり相談に来られるので、その困難や問題が一応の解決すると、私のところを去って行かれる。だから、単純に言えば、終わるということは解決・成功で、続くと未解決、ということになる。
あくまで家族との関係や担任など学校との関係を支える”縁の下の力持ち””黒子”と理解していたが、もう一つ自分の立ち位置がすっきりしないことがあった。
しかし、「いなくなるから取り入れられる」という言葉はぴったりくる。
家族や担任など教師とは、ちょっと違う価値観で、違う角度から、子どもに向き合える私を、子どもがうまく取り入れて自分で歩き出すことを願うのである。私が発するものを子どもが上手く取り入れるには「いなくなるから取り入れられる」のだ。まさに「終わるのも、やめるのも、私の仕事」である。
一つ一つのケース、相談には、到底私などが抱えられない問題がある。
ある同僚が「神戸市の半分の子どもたちをみる責任が私にはある。」と言うのを聞いて内心「バカじゃなかろうか。」と思った。どうして人のことを抱えられるのか。
割りきらなければできないものがある、と思ってはいたが、この夏、ゆっくり主に問いたいと思っていた。一つ一つは偶然ではなく、主によって出会うこととなった方である。主の取り扱いと思いを教えられたいと思った。そうすることで「割り切る」という自己流の方法ではなく、もっと自由な方法で仕事に向かえると思っている。
人の評価や目先のこと、時代や社会の流行、そういったものとは違うスタンスで私が仕事をすることは、今の私に、主がゆだねてくださったこと、と思っている。
約束と勝利はゆるがない、でも、一つ一つ教えられ、主の安息に導かれるには、主に問い、主を信じて歩まなければならない、ように思う。