2009年12月29日火曜日

楽しむ、ということ

2009年は
「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサ5:15~18」
というみことばを心に置き、スタートした。「喜ぶ・祈る・感謝する」とシンプルに過ごしたい、と思った。

さて、私の2009年の特色は、3つある。

1つ目は、Salt氏のリコーダー講座とY・B・M氏のSIGN写真茶話会への参加である。ほぼ毎月奈良詣で?をしていた。奈良という土地柄の不思議さもあるが、お二人の独特の人柄と、そこへ惹かれるように集まる方々のお人柄からたくさんのことを学ばせていただいた。本来の趣旨のリコーダーと写真の上達はぼちぼちだったが、「楽しむ」ことの本質を学ばせてもらえたことは、何よりの恵みの収穫であった。

2つ目は、整体の先生、である。つるりんとしたスキンヘッドで背丈は私とかわらないけど胸板は私の横幅ぐらいありがっちりとした筋肉、その筋肉が実に柔軟さを持っているからびっくり。愛車はランエボで見た目はいかついのに話し言葉は甲高くどこかおネエ調(先生、ゴメンナサイ)、東洋医学の知識から体についてこれでもかというぐらい解説しながら2時間強の整体を、たったの3500円でしてくれる。「銀じ郎さんには商売ぬきでやってます。」と言われ、申し訳ないな~と思いつつ甘えました。ストレッチのやり方や食事について細かく教えてくれ(継続的に自分でしないと「やる気のない人は来なくていい」と見捨てられるので)、確実に腰や肩周りの不調が消えていった。コレステロール値も7年ぶりぐらいに標準値になった。50代を目前に私なりの肉体改造に挑めた。肉体改造といっても私の場合はリハビリ内容に近いメニューですが…^^

3つ目は、研修講師。通級初担当者に2回、小学校3校、島根で1日5時間の研修、それから夏にOz‐Mayに来ていただいてリコーダー講座in神戸の主催。通級3年目となり、今まで学んだことを一度振り返りまとめる必要を感じていたので、研修で話すために研修内容として整理・構築できたことはとてもよかった。単に、知識や経験の解説だけではなく、私を伝えられるように準備していった。2時間ほどの中で、聴く人が自分を振り返り、何かに気づけるか、自分の方向性を見出すヒントになるか、聴く人に考えてもらえる内容にしたいと思った。私なりの表現の場となっていました。

勿論これだけではないが、上の3つのことが、私の中でとても影響しながら2009年を特色付けてくれた。ポイントは社会的な評価より、自分の価値や楽しみに喜びを見出す、そういう生き方を大切に守る、育てる、ということである。自己満足とか独善的といったものとは違う。…リコーダー講座に参加しているさっちゃんは、楽しそうにリコーダーに取り組んでいる。技能でいえば笛吹童子さんにはかなわない、でも楽しむということでは堂々と張り合っている(別に、当人はそんなこと考えておられませんが)。さっちゃんの横で吹いていると「そうだな、私は楽しむっていうことを考え違いしていたな~。」とじんわり気付かされた。その辺りから、少しずつ見えるものが変わってきた感じがする。

この世の社会的な評価から抜け出すことはできないけれど、その価値観にもにくちゃに流されるのは避けられそうに思う。流れは変わらない、変えられないものもある。流れに逆らうのでもなく上手に泳ぐのでもなく、私なりの楽しみに喜びながら流れの中におれるようにしたい。

2009年を特色付けてくださった面々に、この場をかりて感謝します。ありがとうございました。
次への豊かな準備の年にしていただいた、と思います。来年が楽しみです。

2009年12月28日月曜日

「空飛ぶタイヤ」と岡部伊都子

両方に何の関係もありません。私が、最近興味が惹かれた、ことという以外は。

「空飛ぶタイヤ」は数年前にあった三菱自動車のリコール隠しをヒントに書かれた小説。単純に面白かった。ドラマになり話題になったそうだが、有料放送なでの観れません。ちょっと残念。でも、小説や漫画で面白かったものが映像でも面白かった、ということはあまりないし…。

岡部伊都子、は高校の教科書に載っていて「人を愛するということは自分が死ぬことだ」といったことが書かれた五重塔にまつわる随筆だったか…。先日、NHK教育「知る楽」という番組で4回連続でやっており、観ました。

私の2009年は、内容のある充実した一年でした。とっても感謝です。
年末は、掃除や片づけをしながら、ゆっくり振り返り恵みに感謝するつもりです。

2009年12月20日日曜日

カフェテラスNZ

Salt & Uribossa Live at Café NZ に行ってきた。

CDで聴くのと違い、目の前にいる人に伝えようと演奏する音楽のよさに大満足の時間でした。
Uribossa氏のギター、すてきでした。Salt氏の「Love you 東京」でしたっけ?なかなか艶めかしくて^^ … おちゃらけ、ではないですが、エンターティメントというのか、芸として完成度が高く、ボサノヴァとともに極めていただきたいな~。
次回のアルバム曲もよく、楽しみです。

もう一つ、カフェテラスNZという空間を味わえたことは、すごい体験でした。
看板娘のMさんとその家族やお仲間がつくり上げた空間 ― お店の内外装も、人間関係も、飲み物もパンも ― がとても静かな驚きで、帰りの電車でしっとり、どっしり心にきました。
温かい元気をもらった気分です。

学校教育や研修発表(学会なるものも含め)では、けっして味わえない”特別支援教育”と思いました。リコーダー講座でSalt氏が「簡単なパートのメロディを中心にし、できるものがちょっとややこしいパートを奏でて支え、簡単なパートを生かす、そして、みんなで曲をつくる」といったことを何度も話しておられたが、カフェテラスNZがまさにそんな曲として奏でられているようでした。
あの店に、Mさんがいなければ、さっぱりです。Mさんがいるから、まわりの人の味わいが引き出されているように思いました(Mさんがいないと、まわりの人の魅力は半減?)。すごい関係性だと思います。

こんな学びは、私の発想からは出ません。
専門用語は、Salt氏よりちょっとは知っているかもしれないけど、ちょっと悔しい気もしますが、ポイントを射る正確さは、さすがにSalt氏が優っています。
勝ち負けの話ではないので、吸収させてもらいます。今年は「愛着と自己の確立」が自分の研修テーマでしたが、来年は「社会的自立と学校教育」かな~。「学校教育における関係性の再考」かな~。
学んでみたいことが見えてきて嬉しいです。

さて、駅まで送迎してくださったY.B.M氏、めっちゃおいしかっためんたい入りパンやコーヒーのサービスだけでなくお土産まで持たせてくださったスタッフの方、午前中の”コリ”をほぐしていただいた気分です。楽しかったです。いい一日でした。本当にありがとうございました。

2009年12月19日土曜日

寛平さんは、すごい!

「疾風のお娟」と聞いて、すぐピンと来る方?なかなかの時代劇ファン?なのでしょうか。
「かげろうお銀」の由美かおるさんです。今の水戸黄門では「疾風のお娟」役で出演しているそうです。
どうでもいいこと?ですが。
おいくつかわかりませんが、なんでもスリーサイズが20代から変わらないということで、そのアンチエィジングぶりが評判になっています。先日の朝日新聞でも記事がありました。美容法に西野流呼吸法を上げてありましたが、他にいくつかのポイントを上げられていました。記事はそのポイントはよく聞くようなことだけれども「それを40年以上続けること」という最後の言葉に、さすが、と感心した、といったようなものでした。ここには、全く同感です。
スリーサイズなら、私も20代とほとんどかわりません^^
しかし、40年以上地道に鍛錬する精神力は大違い。そして、そのポイントの一つに「新しいことに取り組む」というのがありました。大ごとじゃなくても、ちょっとした「新しいこと」でもやってみようと楽しむ心は持ち続けたい。

そして、寛平さんはすごいな~と。
ついにアジア大陸に、というネットの記事が先日ありました。もちろん、いろいろな思惑が本人以上に取り巻きにはあるでしょうが、60過ぎて、そのチャレンジ精神と行動力にびっくり。無事にやり遂げ帰国してほしいです。

さて、2009年も終わろうとしているけど、今年はsalt氏のリコーダー講座やY.B.M氏のSIGN写真茶話会に参加できたのはとってもよかった。近所の道端にあったチラシから通うようになった整体の先生との出会いもよかった。全く違うことをしておられる方々だが、私が共通点としてみているのは、それぞれ自分の人生に納得して取り組んでいること。自分がやりたいこと、としてしておられる。当り前のことのようだが、そうでない。
「(職場での立場や苦労を)ちょっとはわかってくれよ!」と家族で食事にいっているレストランで語気を荒げて奥さんに言ってるご主人を見た。横で息子が石になって固まっていた。「たいへんだな~」とは思うけど、したくもないことを何かのためにやっている、という、こうものありありの姿は…どうかと。

状況のせいだけではなく、自分の心持ちや、小さな選択を含めそれを選んできた自分に対するツケ、と思う。「自分が選んだこと」と自己責任で受け止められる者で遺体、ではなく、いたい(ワープロの変換にはときどきドキっとさせられる^^)。

歳より若く見られたいのではない。「このおっさん、このじじい、なんか楽しそうやな~」というものが自然と出ている歳のとり方ができるように、小さなことからコツコツと、ぼちぼちと。

2009年12月15日火曜日

勉強せえ

今年、学校の先生を対象にした研修で、以前書いた「愛着者が内在化する」ことの発達上の意味についてよく話した。その中で、三輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」を引用し「愛着の形成をJ.ボウルビィやエインズワースの学説から、ああだこうだ、と言わなくても、様々な人が自分の思い出を通し語っておられ、私たちにとってとても当たり前のことでは…」と話した(他にも故仰木彬氏の言葉も引用した)。「ヨイトマケの唄」は三輪さんが歌うものより、桑田圭祐が歌っているのが個人的には好きですが…歌詞を以下に引用します。

ヨイトマケの唄  作詞・作曲:丸山明宏(三輪明宏)

今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄
 
工事現場の昼休みたばこふかして 目を閉じりゃ聞こえてくるよ
あの唄が働く土方の あの唄が貧しい土方の あの唄が

子供の頃に小学校でヨイトマケの子供 きたない子供といじめぬかれて
はやされてくやし涙に暮れながら 泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た  母ちゃんの働くとこを見た

姉さんかぶりで 泥にまみれて日にやけながら 汗を流して男に混じって
ツナを引き天に向かって 声をあげて力の限り 唄ってた
母ちゃんの働くとこを見た  母ちゃんの働くとこを見た

なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿 見たときに泣いた涙も忘れ果て帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと言いながら  勉強するよと言いながら

あれから何年経ったことだろう 高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で おまけに僕はエンジニア 苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれ この姿  母ちゃん見てくれ この姿

何度も僕もぐれかけたけど やくざな道は踏まずに済んだ 
どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも 僕を励ましなぐさめた 
母ちゃんの唄こそ 世界一  母ちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄

私はこの歌で「勉強するよと言いながら」というところが大好きです。私も父親や母親の働く姿から、さぼりながらでしたが、勉強しよう、いや、勉強を、とではなくても、ええ加減なことはいけん、と思わされました。それが、支えだったな、と思います。

以前の光村の6年生の教科書には「石うすの歌」という壺井栄大先生の物語がありました。
8月6日の広島の朝の悲しみをこんなふうに伝えられる壺井栄大先生に感激しました(でも、「二十四の瞳」は読んだことも、映画を観たこともありません^^)。その中でも「勉強せえ、勉強せえ、つらいことでもがまんして―」という言葉がラストの場面で出てきます。

私は、ほんまに勉強せえよ!と心底子どもらに対して思います。「読み書き計算」そして学んで面白いことはいっぱいある。誤解を恐れず書きますが、学ぶのに特別な支援がいる子なんです、なんて甘ったれたことを言ってないで「つらいことでもしんぼうして、勉強するんや。」と思います。
ただし、ただし、あほみたいなベンキョウで全く不要な劣等感を持たせるようなベンキョウは、根性を決めて遠ざける、学校教育には不要な劣等感を持たせる罠が多すぎる、そして、本当に自分にとって大切な勉強を、覚悟を決めてやって欲しいです。
私は、そういう努力を子どもや保護者や現場教師と一緒にできるものでありたい。

2009年12月6日日曜日

1Q84 卵と壁(個、と組織・システム) ~ 後編 ~

話を「1Q84」に戻す。
 この小説の中でリトル・ピープルがもたらすもの、それをウィルスのようなものとすると、ふかえりと天吾が書き上げた「空気さなぎ」という小説はウィルスに対する抗体のようなもの、とされている。この世に蔓延する組織・システムなるものに、それが善ではなく全てではない、と気付かせるものが必要だ。村上氏の「小説を書く目的は、『システム』の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。」という言葉には深く共鳴する。

 荒野でのイエスさまに、悪魔は「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と語る。確かにこの世の組織・システムに乗り成功することには大きなリスクがある。もちろん、この世的な成功のすべては間違い、などと言っているのではない。ただ、この世でどんなに素晴らしい組織・システムのようでもこの世である限り完全ではなく永遠に続くものではない。心酔するように人や組織をほめたたえるとエライ目にあう。

 昨日はY.B.M氏の案内で、プロカメラマンや彫刻家?などの人たちの座談会を聴きに行った。
 私は、梅佳代さんに興味津々で、楽しませていただいた。その後、salt氏やUribossa氏も交えてお茶タイム?をした。雑談の中でこの人たちは、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心、をとても大切にしている面々だ、としみじみ思った。大切にする、というとじっと抱えて守るようなイメージがあるかもしれないが、実際は、かなりの戦いと思う。

 さて、私は自分の、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心、を大切にしているだろうか。最近、いろいろガラガラポンして考え直そう、と思っている。

1Q84 卵と壁(個、と組織・システム) ~前篇~

 何百万部売れたのでしょうか、ブームに少し遅れて「1Q84」を読んだ。村上春樹の小説は大好きで、翻訳ものとエッセー風のもの以外、小説は短編も長編もほぼ読んだ。
「1Q84」もおもしろかった。この小説についてメールのやり取りをしていると、salt氏からエルサレム賞での村上春樹のスピーチを再度教えてもらった。スピーチ内容は知っていたつもりだったが、再度読み直すと、「1Q84」だけでなく、村上氏の小説を読むポイントになる、と思った。
 一部を抜粋します。

「こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

 私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。」

卵と壁、つまり個と組織・システムの関係は、やはり相容れないもの、と思う。

 旧約のダビデにはいろいろ教えられる。特にアブシャロムから逃れ都落ちする際、シムイに呪われる場面のダビデにひかれます。そのダビデが、アブシャロムの戦死を聞き「わが子アブシャロム…私がまえに代わって死ねばよかったのに。」と嘆く。しかし、ヨアブに王としてあるべき姿を進言され、王として民の前に出る。よいとか悪いとかの単純な判定でなく、このときダビデは、父として卵(個)である姿を捨て、王として壁(組織)のふるまいをした。それは、王として父である自分を壊す、つまり、壁が卵を殺した場面のように思う。
 王制というシステム・組織を持つ限り、ダビデであっても「壁が卵を殺す」ということから逃げられなかったのでは。もちろん、「ダビデは信仰によって王の姿をとった…」と考えるのでしょうが。それはちょっと横に置いて?と考えると、もう一つ、考えさせられる場面が…。
 ダビデは召される日が近づき、その後継をソロモンに決めたとき、ソロモンにシムイとヨアブに対する報復を告げる。これも、よいとか悪いとかの単純な判定でなく、考えさせられる場面である。
 余談だが、ゴットファザーパートⅡで死期の近づいたドン・コルリオーネのマーロン・ブランドが息子のアル・パチーノに裏切り者について語るシーンがあったような。ダビデの壮絶さを映画から想像した。

 卵と壁、つまり個と組織・システムの関係は、やはり相容れず、壁が強大であればあるほど、卵に過酷なことを求めるように思う。

2009年11月28日土曜日

愛着者が内在化する

『脳科学の番組によく登場する茂木健一郎さん(アハ体験の方です)も「子どもの自主性・主体性には安心基地が重要です。」と言われています。
よちよち歩きを始めた子どもは、公園などに連れて行くとテクテク歩いて好きなところへ行きたがります。面白いものを見つけると楽しそうに遊んでいますが、はっとするかのように「お母さんはどこ?」といった感じで顔を上げ、お母さんを見つけるとトコトコトコとよっていってお母さんに抱きつきます。ひとしきり抱きつくと、また、テクテクと…。幼児期から子どもが主体的・自主的にしようとするときは、不安や心配を受け止め慰め励ましてくれる安心基地(お母さんであることが多いですが)が必ず必要です。安心基地がなければ、不安でたまらず、何事かに取り組むことも難しいです。小学校のこどもも同じです。学校の学習・授業は、基本新しい課題が毎日出てきます。「できるかな?」「よくわからんな?」といった不安や心配は大小様々でも、毎日子どもたちは感じ取っています。その不安や心配に負けず向かっていく力には、安心基地が欠かせません。「この先生となら頑張れるかも…」と担任が学校の中で安心基地になることはもちろんですが、やはり子どもにとって安心基地は、家庭です。

安心基地は必要不可欠なものですが、いつ不安や心配があるかわからないからといって、お母さんをいつもいつもそばにおいておくことはできません。「これをお母さんと思うのよ。」とお手製の小さいぬいぐるみでも持たせて…これも限界があります。しかし、たいていの子どもはそんなことをしなくても自然に離れて好きなように遊んだりスポーツをしたり…となっていきます。そのうち「うるさい、オバ○○ン」と憎まれ口もたたくようになります。
これは安心基地がイメージ化され内に蓄えられるようになったからです。これを「愛着者が内在化する」と言い、茂木さんも子どもの自主性・主体性・意欲のポイントとして指摘されています。
小学校でも4年生後半あたりから親にはいちいちグチらず、一人で頑張る姿が増えてきます。目に見え、体に触れ、声で聞こえる応援でなくても、自らの内にある親の愛情を支えに頑張ろうとします。まさに内在化した愛着者(安心基地)を支えに頑張る姿です。そのときに小さいときと同じように親がベタベタよると、うっとうしがられます。逆に、まだベタベタが必要な子を突き放すと危険です。』

これは、保護者向けに書いた文章です。「内在化した愛着者」は人の一生にかかわることと思います。今年、同じテーマで説明を少しずつ変えながら、いろいろな人にいろいろな場面で話しました。私の中で、今年のマイブームでした。

それは「内在化した愛着者」の意味とその重要さを教えられたとき「こうしてキリストが、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(エペソ3:17)というみことばが思い出されたからです。
キリストが私のうちに住む、内在化する、私の心の王座にある、そのことの意味をあらためて考えさせられました。と同時に、この世のあらゆることの中に、神と私たちの関係を教える神さまの知恵がある、となんとも嬉しい気持ちになりました。

私のうちに住んでくださるキリストとの関係が、ここに書けたらなあ、と願います。
う~ん、まだまだ固いな…、どうもぎこちないけど、ぼちぼちと^^

2009年11月23日月曜日

今さら…いやいや、これからだからこそ

ブログをはじめることにした。

3年前からの通級教室の仕事が助走なら、今年、salt氏のリコーダー講座やY.B.M氏のSIGN写真茶話会が、踏み切るきっかけ、になったと思う。

自分が考えたこと、思い浮かんだことを、とにかく記してみます。