いつも遅刻気味な私も、早めに教会へ行った。すると、年配のご婦人が話で盛り上がっている。
そばで聞いていると…
私は昭和20年6月5日の神戸空襲にあった。灘から舞子まで歩き、三ノ宮あたりでは焼け焦げた遺体が何体も転がっているのを見た。舞子に着くと靴がやけてなくなり、ひどいやけどをおった。赤チンしかつけるものがなく、そんな処置でほっていた。
数日後、満州に渡った。終戦2ヶ月ほど前だったが、そんなことはわからない。結局、満州で終戦を迎え、帰国することになった。しかし、日本が負けたことで北朝鮮で汽車から強制的に下ろされ小学校に収容された。そこへ、ソ連軍が来るとなったので、みんな山の中へ逃げた。結局、1年間、山の洞穴で暮らした。その間、情け深い北朝鮮の人が握り飯を持ってきてくれるなど助けてくれた。「日本が悪いことをしたのは、上の人間で、あなた達も戦争の被害者だ。」と助けてくれた人は忘れられない。当時、北朝鮮の大人は朝鮮語だが子どもは日本語だった。親が子どもに教育ができないので、私に数学など教えてやってくれ、と言われ、そんなこともできた。
北朝鮮に1年ほどいて、ある日「間もなく漁に出る。その船に乗って玄界灘の島に下ろしてやるから乗らないか。」と言われた。木造の帆船の魚を塩漬けにする50㎝あまりのところの隙間にみんな入り、海に向かった。3隻の船にそれぞれ100人ほどが乗っていた。ところが台風が来て、その3隻のうち2隻が沈没してしまった。私が乗った船は、なんとか島に着き、私たちが下りると、あっという間に船はいなくなった。船を出してくれた人も見つかると処罰を受けるからだ。
しばらくするとジープが来た。私たちのことが通報されたのだ。私たちはソウルに連れて行かれた。そこから佐世保へ帰ることができた。
神さまは、いつも共にいてくださる。今、私がこうしているのは神さまのおかげです。
と話された。
礼拝前、ほんの10分ほどの間のお話である。びっくりした。平和学習の授業でもお話しして頂きたい内容だが、そんなことより…
懸命に生きられ、今日の日本をつくってくださった世代の方だ。もちろん無名の方で、こんなお話は世間話のように話される程度で、生きて来られたのだろう。「神さまがともにおられる。」という一言に、神さまがおかれた時代・社会を生きるということの深さを教えられた。
私も、神さまはいつもともにおられる、と教えられたい。