2010年2月27日土曜日

親として

子どもの自立を願うのは、普通である。

それまで親の言いつけを当然のことと考え、いやいやでも守るべきことと従っていた…そういう価値観で生きていた子が、思春期には、「ほんとうにそうか?親の言うことより自分はこうしたいが、それでもええんちゃあうん。」と親からの価値観の植え付けから脱し、自分の価値観を築いていこうとする。
「7時には帰りなさい。」と言われ、当然そうするもの、だったのが「8時に帰って何が悪い。7時という価値観より私は8、9時という価値観で生きたい。」と考え出す。親は「いや、7時にはこういう意味があって大事だから守りなさい。」と言い、それに対して子は自分なりに「8、9時でええがな。」という価値観を再考してぶつける。その繰り返し(反抗期)の中で自分の価値観の再考と再構築をしていく、そうして自立が確立されていく。

「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのです。」というみことばの奥儀は、主キリストと教会の関係を示されているが、人の自立を、これ以上にないことばであらわしておられると思う。「父と母を離れ」た人、つまり父と母なる価値観から自立した人でなければ、「妻(=他者)」と結ばれる、ことはない、つまり「ふたりは一体となる」という他者との人格的なむすびつきはできない、ということだと思う。仕事をしていると、保護者(だけでなく同僚でもそうだけど)と話していて「まず、あなたの自立はどうですか?自分の親との積み残しはないですか?」と内心問いかけることがある。勿論、そんなことを口にするのはとんでもない、そのケすら悟られないように努力するが。

だから自分の娘が、いろいろやるのは、必要なこと、そして、それに対して親である自分が甘えや放任でなく向き合っていくことは大事なこと、と頭ではわかっている。しかし、しんどいな~。「主よ、あわれんでください。」と思わず必死になる。

「勉強なんてなんでせんとあかんの!」「自分がしたいことがない!」「なんでがんばってるのに認めてくれんの、否定ばかりするん。」

「今の受験体制で勉強する意味なんてわかりにくい、娘さんはある意味しっかりしてその本質的矛盾を感じとっているんですよ、その上で、本当は勉強をしたいんです。」「この社会で自分がどう生きていくべきか、一生懸命考えているからこそ生まれる疑問です。社会に向かおうとする気持を見守りましょう。」「自分が一番自分を認めにくい、否定しやすい不安定な時期です。本気で保護者の方を非難してるんじゃなくて自分の苛立ちや不安を保護者に向ける、思春期なりの甘え方です。認めてほしい、肯定してほしい、だめなことにはだめですが、その気持にはしっかり答え、認められることや肯定できることは、わかりやすくそうしてあげましょう。親に甘えてきたときは甘えを受け止めてあげましょう。受け止めてもらった子は、必ず自立します。」

仕事上で他の保護者に相談されたら、こんな言葉がペラペラ出るかな~。ペラペラといっても一緒に考えている様子は全力でして口にしていますよ。しかし、これでは、あかんな…

私は、自分の見栄で子どもに何かを要求するようなことは絶対にしたくない、と考えてきた。そりゃ、どの親もそうだろう。私の心の動機をさぐられ、その真実をご存じなのは主である。そういう意味では自分の内の子に対する真実さなど、あやしいもんだ。

つくづく、最善をなされる主は、私の家族に対しても最善をなされている、主の取り扱いを信じ、主にゆだね、主の栄光を見せてください、と祈るのみだ。
自分には間違いも多い、でも、精一杯といえば精一杯なんです、先なんて計算できない、一切のことをご存じの主が、あなたの御手の真実を示してください、と祈る。やっぱり、祈れることが感謝だ。

2010年2月20日土曜日

楽しむ


今日は、童でのリコーダー講座午後の部に参加する。また、ゆったりと楽しませていただくつもり。
Salt氏のひょんな一言で、絵を描いてみることになり、仕事場に来た子どもらと好きに描いた。子どもらに笑われながら「気持悪いから見せんといて。」と言われた絵だけど…15分程度だけど楽しかった。
リコーダーとともにSalt氏にご指導いただきます。
さて、なんと言われるか?

2010年2月16日火曜日

すごい

教会の方で、広告代理店関係の仕事をしておられる方から下記のYoutubeを教えてもらった。

http://www.youtube.com/watch?v=w29re6h_FDo

ある意味、しょうこお姉さんはすごい!「伝説の絵描き唄」らしいが、なかなかああは描けないよ。

日曜日朝7時TBSで健康番組をしている。来週は”美術治療”で絵を描くことが取り上げられる。
これも、とっても楽しみ。

2010年2月13日土曜日

2月の日ざし



2月になると日ざしが明るくなる。透明感のある明るさというのか。まだまだ寒いが、春が感じられ嬉しい。

照明とか日光の具合とか、詳しくはわからないが、光の照らし方で随分と見え具合が変わる。Y.B.M氏の写真講座でも教えていただいたが、すごいことと改めて思う。

先日、まど・みちおさんを取り上げたNHK番組で、一日の終わりは天が一日の死を毎日毎日訪れさせ、死を教えてくれているのだ、といった内容のまどさんの詩を朗読していた。

一日の中でも変わっていく日ざし、その一日も季節によって変わっていく、そう考えると神さまはなんと繊細な配慮でこの世界を私たちに見せてくださっているのか、と思う。

今朝は、娘二人がそれぞれ部活に出かけ、妻もパートに出かけ、結局私が一人残った。女3人が出かけた我が家の玄関に思わず目が体がとまり、デジカメで撮った。

何気ない一日だが、いい一日だ。感謝。

2010年2月11日木曜日

エロい

 職場に4年男子の母からのFAXが入った。内容は「息子が、最近女の子のお尻をさわりたくなる。おっぱいとか気になる。テレビを見てもおっぱいを見てしまう。そんなことを考えるボクはエロくてヘンタイや。いなくなってしまいたい、と泣くんです。」とあった。お兄ちゃんが「そんなん普通や、ほれこれ見てみ」とちょっとHな漫画を見せても、母が「頭で思うことと、してしまうことは違う。触ったらあかんけど、考えるのは普通でかまわない。」と諭しても、悩んでいる、ということでした。

 4年生の保健体育では第2次性徴を教えます。たまに授業見学すると「男子は肩幅が大きくなりゴツゴツとした体形に、女子は胸が膨らんできたりお尻が丸くなったり、…精通や月経が始まります。」と説明があるだけで、ちょっと不満を感じます。

 今ここに自分が存在するためには生んでくれた父母の親がいます。その親を生むためにも2人の親が…そうやってさかのぼると自分が生まれるためには驚くような数の人が必要です。そして、自分からつながる未来の命も同じです。命は連綿としたつながりの中であるかけがえのないものです。その自分も生まれたときは4,50㎝です。150㎝弱の昨日の子も生まれたときはその1/3ほど。でもお母さんのおなかの中では、鉛筆の先で小さく書いたほどの卵子と肉眼では見えない大きさの精子がくっついたところが始まりです。しかも1、2億の精子の中からたった1つの代表が卵子と結合する。日本の人口でたとえたらキムタクよりイチローより鳩山首相よりキミが代表になったということ。こんなふうに命が存在するには奇跡のような確率や物語があるんだよ。命はかけがえのない尊いものです。その命のもとになる精子と卵子が自分の体の中に準備できるようになるのが第二次性徴です。大切な命を授かる資格が与えられていくことです。命を授かる、預かるには、ちゃんと訓練を受けた人でなければだめです。子どもを育てるよいお父さんやお母さんになる訓練を受けなければ、授けられた命はたいへんな苦労をします。だから、第2次性徴があると体だけでなく心も訓練を受けます。キミがエロい自分と思うのは、その訓練が始まった証拠です。キミは勉強したりスポーツで練習したりすると「こんなことばかりしてボクはヘンタイや」と思いますか?がんばっている自分を恥ずかしいとは思わないでしょう。「おっぱいさわりたい。」と言う必要はないけど「エロい自分はおかしい」と自分を責める必要もないです。訓練を受け、よい大人になましょう。大丈夫。

と本当は1~4年の間で、生まれたときの親の喜びや育ててもらった愛情を振り返りさせながら学ぶことを30分で話し合いました。

そして「おチンチンはふだんヘロっとしているのに、時々かちんこちんになりますか?」と聞くと言いにくそうに「うん」、「なんかこのへん(股間のまわり)がもやもやしますか?」「うん」ということなので「訓練、訓練、大丈夫。」と伝えました。

うろ覚えだけど「ノルウェイの森」には直子と自殺した元彼、それからワタナくんがいたと思います。
3人はもともと仲良しだったようですが、直子と元彼は性的な関係がありました。確か「本来、受けるべき葛藤を避け性的な関係をもった」といった表現があったような。そして元彼が突然自殺し、残された直子とワタナベの新しい関係が始まります。

この小説が伝えることはいろいろあるでしょうが、私は、性的な葛藤は人の自立に深く関係する、ということを教えられました。エロさは、汚い、罪だ、と排除するだけでは、あるいは、悩むことではない、と軽んじても、どちらもだめ。エロに付き合い、課題を修得していかなければ。

昔は、Hなお兄さんが近所にいたりして、なんとなく知って行きましたが、最近は母親が息子に説明したりするそうな…。う~ん、どうなのかな。職場でも、それこそマスターベーションも含め性的なことを子どもに教えなければ、変質者的な犯罪を犯す危険もある、と言う人がいて…。あまりの違和感に驚きました。きっぱりと「そんな必要はない。」と言いました。それは教師としてではなく男の先輩として話してあげたいことです。教師としてマスターベーションを語るなど、気持悪い。

自分で悩みなさい、自分で学びなさい、学校や親が教えるのは、その子が学ぶ機会を奪うことにもなりかねない。高等で難解な知識であろうと小学校低学年の知識であろうと、自分で学ばなければ意味がない。

2010年2月6日土曜日

そっけない郵便物

先日、Salt氏から書籍のコピーだけ入れられた、味も素っ気もない郵便物が届いた。

橋本治氏の本の一部がコピーされたものだが、私の中でゆれている部分をさらにゆらす内容のものだった。

内容は、都立高校の入試問題が橋本氏の小説から出題され、橋本氏自身が正解と思った選択肢が間違いで、正解とされているものに、「どうしようもない違和感」があると思っていた学校教育の本性がでている、といったものだった。単なる学校批判ではないのだけれど、読んでいただかないことには…。

ゆらされた文章を抜き出します。


父親が、「一緒にいてやろう、このシチュエイションをお前と共有してやろう」という気になったからこそ、子供はその「浜辺の情景」を理解したのです。だからこそ、海は「きらきらと光っていた」になります。私にとっての「愛情」は、この程度に濃厚で、この程度に素っ気ないものです。
それは、子供にとっての学習体験であり、と同時に、父親にとっての学習体験にもなります。

大切なものとはないか? 大切なものを発見するためには、大切なものとつきあわなければならない。「美しい」という概念は、その学習体験の中からしか生まれないのだと、私は思います。…「”教育”という父親か母親は、やっぱり子供の相手をしてくれないんだな」と思います。「美しい」を教えたかったら、もっとちゃんと子供につきあってやればいいのにと、私は思うだけです。

「あらかじめ存在している指示に従え―それを正しいとするのが教育だ」という考えを、私はまったく支持しません。「ああ、やっぱり世の中は、相変わらず”美しいが分からない人”の方が支配的なんだな」と思うばかりです。


”美しい”は”楽しい”でも”尊い”でもいいのではないでしょうか。

最近、昔一緒に仕事をした方二人に久しぶりに別々の機会に会い、同じように「すっかり達観してるな~」と言われました。皮肉とも呆れとも、なんとも言えん、といった気持を込めて私にくださった言葉です。
教科書を、でも教科書で、でも、とにかく教科書に示される教育過程を気にせず、一般的な学校の時間を生きず、そして、学校の最も近くにいながら別の時間を生きるようになり、だんだん学校現場で異星人になってきたようだ。努めて「自分は違うぞ」といったやり方を選んだわけではなく、自分が大切にしたい、と思うものを選んできたらだんだんこうなってきた。

昨日は仕事の合間に「私の言い方って腹が立つ?」と大先輩女史(私の仕事の専門分野ではめっちゃエライ人)にいきなり聞かれ「ええ、その全否定し見下すようなものの言い方に私も他の人も腹を立てることはありますよ。」と正直には言えず「いきなりなんですか。」と問いなおすと「銀じ郎さんぐらしか、私に言う人がいないから」と言われてしまった。「私、結構言われたことはあれこれずっと考えるタチだし…」と言葉を足され、ゲロゲロ、何を言ったっけ、と内心動揺しながら、その場を取り繕った。

Salt氏が送ってくれたコピーは、学校現場で行き詰まり感を抱える同僚にヒントを与えてくれるものと思う。だからといって他の人に、これを読んでわかれ、と理解してもらう努力をするつもりはなく、私が大切と思うものにより向き合って仕事をしていきたい、と思わされた。そうしている中で、私の話を求められる場が用意されれば話すだけだ。昨日の大先輩女史にはごまかしを入れてしまい反省した。次、チャンスがあれば…ガチンコするつもりは全くないけど、適切に意思表明せねば。

いろいろゆらされ、しっかり立つためにスタンスを確認させられた。ゆらされずに立つコツを教えられると、また、楽になって余計な力が抜けていく。その感覚が嬉しい。

大地の子

先日から「大地の子」(著:山崎豊子)を読んでいる。

「沈まぬ太陽」「不毛地帯」「運命の人」と読んで「大地の子」になった。「白い巨塔」「華麗なる一族」はDVDを借りて観た。すごいな~、と思うばかり。

国家や企業といったものと個人の尊厳を考えさせられる。なんだかんだいっても、さまざまな危うさと毒を含んではいても、今の私のまわりは守られ平安だ。この恵みは多くの先人の言葉にできない苦労があってこそのものだ。50を前にし、しみじみそう思え出し、感謝する。

平凡な私の日常ではあるけれど、「個人の尊厳」は表明していかなければならない。