2010年1月30日土曜日

レモンはすっぱくない

 ことばのお遊び的なゲームで”20のとびら”というものがあります。
 ”20のとびら”という名称が一般的なものかどうかは不明ですが、果物で野菜でもなんでもいいので「キュウリ」とか「ミカン」とか書いたカードを箱に入れ、出題者が「この中には果物の名前を書いたカードがあります。」とヒントを出した後、回答者が「色は何色ですか?」「いつの季節の果物ですか?」など質問していき、何が入っているか当てるゲームです。
 スリーヒントゲームというものもありますが、似たようなもので、先日仕事場でやってみました。

 出題者Aは子どもで、質問者(回答者)Qは私です。
 Q「色は何色ですか?」A「オレンジに似ています。」Q「値段は高いですか?」A「けっこう高いです」Q「どんなふうにして食べますか?」A「ゼリーに入れたりします。」Q「すっぱいですか?」A「すっぱくはありません、甘いです。」…などなどやり取りがあり、「メロン」「みかん」「もも」などいろいろ答えましたが、全部ブッブー× ギブアップして聞くと「最後のヒント、お魚にかけて食べたりします。」「えっ、レモン?
!、すっぱくないっていったやん。」すると憮然として「レモンはすっぱくないやん。」と言われてしまいました。

 味覚的な感じ方はいろいろなので、レモンがすっぱいかどうかは、それぞれの感じ方でいいでしょう。ただ、一般的な了解として、レモンはすっぱい、としたいところです。まあ、それでさらっと流してほしいわけです。「私は、すっぱくなくて甘いけど、すっぱいというのが一般的なんだ。」と理解してほしいところです。それが、通じません。「レモンはすっぱくないやん。」と断言します。

 「ああそうか、〇〇さんはそう感じるんだね。」だけで流すか。しかし、このままにすると、また、子どもらの中で「ナニユウテンネン」と突っ込まれたり、こんなゲームなら「すっぱくないなんて言うから、当たるわけなやんか!」と文句を言われたりします。「たいていの人は、レモンはすっぱいねんで。」とちょこっと言葉を足しました。

 この子は、こういう食い違いがありとあらゆる場面であり、学校でしんどい気分になります。
 「私は、こう思うけど、みんなは違うんだな~」と自分を客観視できれば、まだ多少楽だろうと思いますが、それがまだ無理なので、始終まわりから批判されるような思いをしています。

 たかだか小学生の6年間ですが、こういう戸惑いを持つ子には激流のような日々で、自分のペースに伴走して一緒にやってくれたり、伴奏してポジションを与えてくれたり、する存在はなかなかないです。

 私の仕事場にいる間は、なんとか伴走も伴奏もしたい、せねば、と思います。

3 件のコメント:

  1. 昨日は写真茶話会お疲れ様でした。いい作品になりそうですね。
    楽しみです。

    Saltさんをまじえたその後の食事会でも上のゲームの話を聞いていて思ってたんですが、ルールを変えてみたらどうでしょうか。
    ヒントを出す方が、できるだけ少ないヒントで当ててもらった方が勝ちという。
    ちょっと誘導的で、あの時のSaltさんのテンションの前で言うと怒られそうだったので言えませんでしたが、僕だったらどうするだろうとずっと考えながら聞いていました。
    昨日の話全部、そんなふうに考えていたら、小学校の先生になったような錯覚を楽しませていただきました。

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  2. 昨日はお疲れさまでした。テンション高かったんですね。私。流石の私も今週は脱力弛緩モードではつぶれていたと思います。また、核心部分の詳細は後日。流石にそこは王将では口に出来ませんでした。

    さて、話題の件ですが、私の見立てでは、鍵は「相対化」にあると思います。

    自分の感じ方や立ち位置、そして自分の生きにくさを相対化出来ないところにこの子たちの問題があります。

    同時に、通級学級と原学級、学校と学校外、指導の枠の内と外、現在と将来、こうしたことを教師も相対化出来ていないことが多い。

    誰もが「今」「此処」「自分」に囚われていまうのです。

    私の発信は、何か違うなというその人の違和感を大事にしながら、現実に対して違うものさしを渡してみたり、反対側の峠に連れていったりすることには、多少の意味があると思っているのです。

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  3. あっ、目からウロコ、です。その方が理解し合うと共感性とか共有感とかに近づけますね。それがあってこそ、今度は「簡単にはわからせないぞ。」という駆け引きの面白さがわかる。ナイスな助言、ありがとうございます。

    昨日の王将での会話は、結構なもので、餃子はおいしいけど胃にこたえるように… Salt氏の話は消化が…(笑、苦笑いほどではないけど)

    Y.B.M氏もSlat氏も”表現”に向き合っている人たちは、面白いですね。私が「表現」を語るのは、ちょっとおこがましいですが、並んだ私の写真を見ていると「このテーマ(思い)は、もっと丁寧に表出したい。」とテーマ(思い)に対する真面目な(真摯と書くのはちょっと重く・固いけど)気持になりました。私だけの満足でいいのだけど、「これをどうしますか?」と問いかけたくなる気持が…。

    いろいろしなくていけないけれど、自分がやりたい、向き合いたいものが少しずつはっきりしてきたような、そこが確固たるものであれば、いそがしくても心を亡くす「忙しい」にはならないだろうと。

    ああ、やっぱりこういうのは楽しいですね。

    と書いて書きこもうとしたところにSalt氏のコメントが入り。「相対化」は全くその通りと思います。私のところにくる子どもにどうやってそれを気付かせるか、真面目に考えなければと思っています。また、教師たちにも立ち位置に気付かせるコメントが必要です。「フィールドを知らずに動くのはもう終わっている。」と言われた方がいましたが、このことを真面目に考えないと。

    今度は周囲に気兼ねしないところで、核心に迫りましょうね。胃もたれ胸やけ覚悟で聞きます。

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