その自己決定のために「こうあるべきでは…」ということを周囲が示すことはできても、だから「こうします。」ということは本人が決めない限り、やらせようとしてもするはずはなく、やっているようでもその子に(人に)とって、身に付いた、というものにはならない。
そして、自己責任を負わず「言われている通りにしているのに…」と他者のせいにする。
発達障害の特性がある子たちと向き合い、わがままやなまけとは違うから…と許容するものと、発達障害であろうとなかろうとしなくてはいけないことの区別をどう考えるか、常に問われてきた。
その意味を考えず、体裁や見栄のためにどうでもいい約束を強いられるようなことには「ほっておいてください。」と言い、この子が自分なりに社会に生きる人になるために、と思うことにはしっかり向き合わせる、と言えなければいけない。
その上で「君は自分で決めてやろうとしているか。」と問う人でなければ…。
今週は、朝登校できない理由をぐたぐた言う子に「学校に行こうと思っているか。」と問い、「こんなんしたくない、将来困っていいもん。」と言う子に「困っていいなら、今、これをやって困りなさい。」とプリント課題をやらせ…今年度、何を中心にして、子どもとその保護者や先生たち、と私が”かかわる”のか、少しずつ教えられてきたように思う。
自分で変わろうと思うのか、そのために動く意思があるのか、神さまの前で、それぞれに応じて自己決定・自己責任を問われることは、等しく同じである。
写真は、チョーマイペースの小4女子の手にかかったワニワニパックンである。現在、彼女と私の関係は、私がこのワニワニパックン状態である。トホホのホ…だ。
就活中の娘が毎日ぶつぶつ。
返信削除「バブルの時に就職した、お父さんに 偉そうに言われたくない。」と そっぽを向かれる。
24時間死に物狂いで勉強するも、ウダウダ携帯いじってベッドに転がり続けるも本人の自己決定である。
毎秒毎秒が自己決定の連続ですね。
保護者に一本連絡入れるか、今この子に付き合って逆上がりをするか、そしてこの子にもう一声かけるか…。
全て、脳裏を横切ったものは実行しておいて、マイナスはない。が、なかなかそれができない自分です。