SIGN写真茶話会で編集されてからタイトルが思いつかず2010SIGN写真茶話会の発注が一月ほど止まっていた。昨日やっとタイトルを「この手に包まれて」としてカメラのキタムラに発注した。
東日本大震災の報道を観ていたら、高台にある自宅からホームビデオで津波が押し寄せる様子を録画しているものがあった。この高台は大丈夫だろう、とビデオを動かしていたようだが、迫ってくる津波に「これは危ない、避難しよう。」と言うと横にいた小学生の息子さんが「宿題はどうするん?」と聞いていた。父親は少し笑いながら「そんなことを言ってる場合じゃない。」と答えていた。
阪神・淡路大震災のとき、私は転職し教員に採用された1年目だった。肢体不自由児の養護学校に勤めており、新学期に書いた書初を教室に広げていた。学校へ向かう車中で「あの書初に物が落ちてらどうしよう。先輩に『お前が片付けてないからじゃ。』と言われるな~。」と考えていた。学校へ着くと屋上の貯水タンクが割れ各フロアー水浸しになっていた。書初を広げていた教室は2㎝ほど水がたまり、書初はスーと流れるように浮いていた。勿論、そんな書初どころの話ではなく対応にすぐ追われた。気にした先輩は自宅が半壊でその日は出勤もできなかった。
あのときも、自分の日常って何だ?!と思った。
宿題を気にする小学生、書初を気にする新米教師、…普通の日常なら当たり前にちょっと気にする事柄でも、本当は実にどうでもよいことがたくさんある。
しかし、同じ日常の事柄でも、やっぱりどうでもよくないものがある。平板な日常から、確かなものを教えられる必要がある。2010年に撮った写真には、私の仕事の日常がある。愛着と自立の間で、学校という社会に戸惑いながらやりくりしている子どもらを、私の教室に迎え営んだ日常である。学校で普通に学級担任として子どもに向かってはできなかったことをここでさせてもらっている。私なりに自分のこの両手で包むように扱った”時間”である。子どもを写しているが、自分の姿が写っており、そして、そんな私を子どもを、そっくり包む神さまの御手を感じている。
私は、神さまの御手に包まれている、と思えているから、流れ捨て去られそうな子どものある部分を自分の手ですくい上げ包みたい、と思っている。こういう気持ちで仕事に向かえることが、私に与えられている神さまからの報いと思える。
「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」(哀歌3:24)
東日本大震災に現場で向かう方々を支えてください。被害の中にある方々に答えがありますように。そして、具体的な救援が進みますように。
報道からはリビアの問題も伝えられている。便利さや虚実を自慢することが主流の”日常”が正されますように。まず、自分自身を問い質さなければ。
震災の中でも「宿題」が頭をよぎる日常に、私はやはり強い違和感を覚えます。瓦礫をかき分け、徒歩で通勤する大人にもついても同じことを思います。それって、仕事への責任感ですかね?私は異常な優先順位だとしか思えない。下の作文の救出に関する優先順位は正しいと思います。それは主権者を前において、選んでいる価値だからです。
返信削除「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
返信削除悪霊を服従させることを喜びより何を喜ぶべきか、優先順位を諭されました。毎朝、思い浮かべます。
被災を受けられた方、被災地で労する方、それらの方に容易くはないけれど、優先順位が示され慰められ力付けられることを願います。