2010年12月16日木曜日

永遠の0

百田尚機の「永遠の0」を読んだ。
零戦に乗り命を落とした祖父の生涯を孫がたどっていく物語だ。小説の形態としてはちょっと…とは思うが、あの時代を生きられた方々を知ろうとするには一読の価値がある本だと思う。
日本はどうなってしまうのだろう。
組織とか社会とかに依存し期待すると、おかしくなる。
しかし、そういったものに一切属さず生きることはできない。
「それは私に任されている」と言い放ちこの世を支配するものの手から解かれて生きるには、主を見上げる、つまり信仰しかない。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ43:4)
「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪をおもいださない。」(イザヤ43:25)
私の教室は、この社会でうまくいく、そんなことにとらわれず、全く違う価値観がある場所でありたい。
学校や自分のクラスに適応できない、言い方はどうかと思うが、この世に捨てられた(学校に適応できない)者が真に価値あるものを得る、とはちょっと福音的ではないか。
療育とか、何か改善するところ、と自分の教室を捉えていたが、学校組織に負けない教育的価値をもつところと胸をはりたい、と考えるようになった。
SIGN写真茶話会で自分の写真を見ていると、私の教室へ来る子や保護者への私の”ラブレター”としてまとめたい、と思えてきた。
私の2010年版SIGN写真茶話会写真集は、そんなものにしたい。

2 件のコメント:

  1. よくご承知のように、集団の中での生きづらさを抱えた子どもたちに寄り添うことは簡単ではないです。

    それは、「その世界での専門性に長けた人たち」に最も欠けた視点だと思っています。

    「生きづらさ」は、必ずしも障害児に貼り付いた発達に関する問題ではないからです。

    そのことに気づきかどうか、憤る感覚を持てるかどうかは、研修して学ぶようなレベルのことではないですね。

    もっと根本的な人格や感性、生き方に関わることだと思います。

    がんばれ!銀じ郎。

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  2. はい、がんばります、がんばろう!

    そうなんです、違和感と感じるものが違い、動機が違うんです。
    主を見上げて私は私です。

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