そのため、急遽、3年生の遠足に駅まで付き添い見守ることになった。
子どもたちは、関係なくお菓子工場見学を楽しみに出発した。班ごとに電車に乗り、目的地に向かう学習だ。
数年前担任をしていたとき、こんなことがあった。
2年生の子たちが同じように班ごとに電車に乗って自分たちで遠足に出かけた。帰りも同じように自分たちで、ということで私は学校の最寄りの駅で待っていた。ところが、予定した時間(電車)になっても1つの班が帰ってこない。結局、電車の進行方向を間違え、逆の電車に乗ったため途中の車内で見知らぬ親切な方に教えてもらい、乗り換えて帰ってきたため遅れたようだ。
待っていた私は遅れて着いた子らがそう報告するのを聞き「だから、行きと帰りは違うで、とあんだけ言ったやろ!」と前歯まで出ていた言葉をひっこめ…どうしたか、隣のクラスの子が書いた作文で説明します。
みんな、おりたら、
「やっと帰れた。」
と言っていました。もう、銀じ郎先生はいないと思ったら、まだ銀じ郎先生はいました。ぼくたちが、のりまちがえたことを話すと、
「ええけいけんをしたな。」
とほめてくれました。
この作文は表彰され、選考者のコメントには「(電車の乗り換えを教えた))親切な人、やさしい先生、みんないろんなところで、ぼくたちをささえてくれているのですね。」だった。
隣の先生がこの作文を出してくれたおかげで、私はどんだけいい先生ということになったでしょう。
意図せず”いい人”にされてしまう調子のよさを笑い、またそのおそろしさを感じた。
だって、その瞬間は、やっと帰れたという子らをなじり倒したかったに…。
だって、その瞬間は、やっと帰れたという子らをなじり倒したかったに…。
「初めて自分で切符を買った~」とつぶやく子のそばにいて、また、思い出した。
聖書に人からの評価は小さいとありますが、
返信削除全てを見えないからこそ美しい誤解もある。
それでも実際になじり倒したのとしないのでは結構差がありますね。
所詮人はその様なものだと知ることが
第一歩かもしれません。
でも神の評価は小さくないですね。
この出来事の数年前に先輩の先生からちょっとした会話の中で「安全面が確保できるなら、間違える経験をさせることも大切なこと。」と言われました。その言葉が残っていましたね。
返信削除でも、ののしり倒すようなことは、情けないけど多々ありました。傍からみるようになって、前で立っている先生と子どもと、気持ちにズレがあることがよくわかります。
ズレは当たり前、そのズレをどう受け止められるかが、先生と子どもの関係性のようです。
学校の子どもは「先生はいつも最善をしてくれる。」と信じられないけど、私は主をそう信じて、ズレと感じることを委ねられるから感謝です。