昔々、救われた頃は、大学の友人であり兄弟姉妹である同年齢の人者がたくさんいた。教会のことを「ここの教会は伝道者養成学校みたい。」と評した人もいたが、とにかく聖書を読む、学びをする、ということに熱心だった。
ついていけない私は苦労したが、あの頃の学びのおかげは随分とある。
朝、起きるとまずデヴォーション?静思の時?をもたなければ…と、ある種、脅迫観念めいて聖書を開いていた。そんなことが長続きするはずもなく、教会を離れ、聖書を閉じた。
いつからかわからないが、再び、朝、聖書を読むようになった。
そして、家庭が与えられ、この仕事になってから、日常を祈りつつ聖書を読むようになった。
教会に行ってなかったので兄弟姉妹の評価など関係なく、みことばを読み、みことばに支えられ、みことばに示されることを感謝した。
そういうみことばの味わい方や祈り方が、日常から教えられていった。
それは今も変わらない。朝、聖書を開き祈る。20分ほどの時間だけど感謝である。
家族や、仕事でかかわる人や物事を主に祈りたい。
祈り深い人をアピールしているのではない。そう書くこと自体チャンチラおかしくてホント恥ずかしい。切羽詰まるようなことがあるわけではないが、そうしたい不思議な迷い?戸惑い?が湧いてきている。
わたしにある”主のいのち”は生きておられる。”新しい人”を、また、教えられるだろう。
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