2010年3月21日日曜日

主の祈り

先日「パーソナリティ障害の病理とその対応」という講座を聴いてきた。医者向けではなく教員や福祉関係者に語られた講座なのでわかりやすく話してくださった。「クライン派対象関係論」からお話ししてくださった。おそらく、学術的にはめっちゃややこしいのだろうが、私の頭で理解できたことをまとめると…

生まれた乳児と母親との関係では、乳児の中には母親との分離はなく、母親と一体の感覚である。だから、お乳が欲しい、と泣いたり、おしめが濡れた、と泣いたり、それに母親が応え、お乳をくれたりおしめをかえてくれたり、また、抱っこでよしよししてくれたり、そうやって機嫌がよくなっても、乳児は母親が自分にしてくれたから機嫌がおさまった、ではなく、どうやら自分で解決したかのように、ワーとなった機嫌を自分でおさめた気になっているらしい。
自分ではどうしようもない不機嫌(お乳が飲みたい、おしめが気持ち悪い)を母親に排泄し(投影性同一視)、その不機嫌を母親が取り入れ同一化し、理解し、解毒し適切な対応として乳児に返すことで乳児は機嫌をおさめている。この母親がする包容機能が重要と言われた。成長するとやがて母親的なものが自分の中に内在化し、内在化したものが包容機能を発揮し、不機嫌をおさめてくれる。

もう一つ、生まれたての赤ちゃんを母親のおなかにおくと、這い上がっておっぱいをくわえる。つまり、赤ちゃんは「おっぱいへの期待」というおっぱいに対する前概念を生まれたときに持っている。その後、母親のおっぱいに出会って「これがおっぱいだ」というひとつの概念をもつ。ところが、その後、ときにはお乳が出ないときのおっぱいもあり、欲求不満を生み出す悪いおっぱいもある。しかし、お乳が出るおっぱいも、出ないおっぱいも同じおっぱいであり、「おっぱいとはそういうものなのか?」」と「考え」が生み出される。欲求不満を生み出すおっぱいを悪いものと排除せず、「これはなんだろう」と考えることが重要である、とも言われた。つまり、物事には善し悪しがあり、悪はただ排泄、排除するだけでなく、「これはなんだろう」と考えることが必要、ということだ。

パーソナリティ障害など病気になる人は、成育歴にその原因があるとは言われていない。しかし、パーソナリティ障害の方にはこの、自分にとってのやっかいごとをおさめる包容機能や考えることに困難さがある、と言われた。他に「対象喪失の経験」ともあわせて説明され、とても興味深かった。

私のところには、調子よく問題ない、という親子は来ない。なんらかの難しさをもっている家族が相談にくる。つきつめると、包容機能と考えることを、私がお手伝いできるか、どうかになる。そう考えたと同時に、神さまとの関係を思い起こされ、感謝した。

おっぱいの話のように、神さま、という前概念が人間にはある。しかし、わかっているわけではないので欲求不満を生み出すように感じる”神さま”のときもある。その”神さま”を排除するのではなく「なんなんだろう」と考えることが大切である。

また、自分でおさめられない不機嫌を、神さまによっておさめていただいた。神さまの恵や慰めがどんなものかわからないときは、自分で乗り切った、不機嫌をおさめた、ような気でいたが、まさに神さまの包容機能で、おさめさせていただいてきたのだ。
今は、自分でやっているのではなく、神さまに投げかけ解毒していただいて返されたもので、自分をおさめている、と少しは思えるようになってきた。

ヨブ記を読んでいるが、まさにヨブが自己の中では解毒しきれない困難さを吐き出したとき、3人の友も包容機能をはたせずにいた。神さまは、その3人の問題も含め、ヨブがその友人のために祈ったとき、全ての解決、解毒を完成された。

研修などでこういう気づきを与えられるとき、神さまからおかれた職場と教えられ感謝だし、そうでないとやってられない、と思う。

主の祈りの前のみことばは

あなたがたがの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなりさない。

とある。神さまの包容機能を求め祈るときも、この関係こそが全てのポイントとと思う。

3 件のコメント:

  1. 正常と異常、障害と障害でないもの、病気と病気でないものの境界は実に微妙です。

    治るものと治らないもの、責任を問えるものと問えないもの。

    適応できるものとできないもの・・・etc

    「医者を必要とするのは病人です」というイエスのことばが沁みます。

    神を離れた人間の人格はある意味「正常ではあり得ない」と私は思っています。

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  2. 本当にそうですね。

    先日も保護者から「障害といえるかどうか」の境界について問われました。「例えが悪くて申し訳ないですが…探偵ナイトスクープという番組で『何歳までが”お姉ちゃん”で何歳からが”おばちゃん”か』という調査をしていました。するとある年齢のところで判断する者によってどちからにぶれます。障害のあるなしも、同じように人によってぶれるゾーンがあり、障害名がつくつかないなど、あまり意味がなく、そういう特性がある上でどうなのか、が大切では…」と話しました。
    境界は微妙です、個々人が神さまに問われるものが大切。それは人のことをとやかく言う前に自分がどうかですよね。

    心理や精神病理や発達の話で親子関係を説明されると、自分が親とどうだったのか、自分の子とどうなのか、そして、主との関係は、と考えさせられます。いつも「主との関係」に思いを向けられるからセーフだけど、それなしにそんなことをカンガエルナンテ…ありえませんね^^

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  3. おっしゃるとおりですね。

    私たちは親であったり子であったり、先生であったり生徒であったりと、地上では様々な関係性の中で自分のあり方を説明するわけですが、それらはすべて主との関係へと向かうための模擬的なものだと言えます。

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