2010年2月6日土曜日

そっけない郵便物

先日、Salt氏から書籍のコピーだけ入れられた、味も素っ気もない郵便物が届いた。

橋本治氏の本の一部がコピーされたものだが、私の中でゆれている部分をさらにゆらす内容のものだった。

内容は、都立高校の入試問題が橋本氏の小説から出題され、橋本氏自身が正解と思った選択肢が間違いで、正解とされているものに、「どうしようもない違和感」があると思っていた学校教育の本性がでている、といったものだった。単なる学校批判ではないのだけれど、読んでいただかないことには…。

ゆらされた文章を抜き出します。


父親が、「一緒にいてやろう、このシチュエイションをお前と共有してやろう」という気になったからこそ、子供はその「浜辺の情景」を理解したのです。だからこそ、海は「きらきらと光っていた」になります。私にとっての「愛情」は、この程度に濃厚で、この程度に素っ気ないものです。
それは、子供にとっての学習体験であり、と同時に、父親にとっての学習体験にもなります。

大切なものとはないか? 大切なものを発見するためには、大切なものとつきあわなければならない。「美しい」という概念は、その学習体験の中からしか生まれないのだと、私は思います。…「”教育”という父親か母親は、やっぱり子供の相手をしてくれないんだな」と思います。「美しい」を教えたかったら、もっとちゃんと子供につきあってやればいいのにと、私は思うだけです。

「あらかじめ存在している指示に従え―それを正しいとするのが教育だ」という考えを、私はまったく支持しません。「ああ、やっぱり世の中は、相変わらず”美しいが分からない人”の方が支配的なんだな」と思うばかりです。


”美しい”は”楽しい”でも”尊い”でもいいのではないでしょうか。

最近、昔一緒に仕事をした方二人に久しぶりに別々の機会に会い、同じように「すっかり達観してるな~」と言われました。皮肉とも呆れとも、なんとも言えん、といった気持を込めて私にくださった言葉です。
教科書を、でも教科書で、でも、とにかく教科書に示される教育過程を気にせず、一般的な学校の時間を生きず、そして、学校の最も近くにいながら別の時間を生きるようになり、だんだん学校現場で異星人になってきたようだ。努めて「自分は違うぞ」といったやり方を選んだわけではなく、自分が大切にしたい、と思うものを選んできたらだんだんこうなってきた。

昨日は仕事の合間に「私の言い方って腹が立つ?」と大先輩女史(私の仕事の専門分野ではめっちゃエライ人)にいきなり聞かれ「ええ、その全否定し見下すようなものの言い方に私も他の人も腹を立てることはありますよ。」と正直には言えず「いきなりなんですか。」と問いなおすと「銀じ郎さんぐらしか、私に言う人がいないから」と言われてしまった。「私、結構言われたことはあれこれずっと考えるタチだし…」と言葉を足され、ゲロゲロ、何を言ったっけ、と内心動揺しながら、その場を取り繕った。

Salt氏が送ってくれたコピーは、学校現場で行き詰まり感を抱える同僚にヒントを与えてくれるものと思う。だからといって他の人に、これを読んでわかれ、と理解してもらう努力をするつもりはなく、私が大切と思うものにより向き合って仕事をしていきたい、と思わされた。そうしている中で、私の話を求められる場が用意されれば話すだけだ。昨日の大先輩女史にはごまかしを入れてしまい反省した。次、チャンスがあれば…ガチンコするつもりは全くないけど、適切に意思表明せねば。

いろいろゆらされ、しっかり立つためにスタンスを確認させられた。ゆらされずに立つコツを教えられると、また、楽になって余計な力が抜けていく。その感覚が嬉しい。

3 件のコメント:

  1. 僕もあの手紙をしばらくは鞄に入れ毎日学校と家を往復した。
    僕はSalt氏の言わんとすること、銀じ郎氏の言わんとすること、それぞれ「言葉」として理解できても、理解を超えた部分で「分かった」と言い切れてない。
    そういう意味では、「美しさが分からない部類」なんでしょう。
    ただ、ここ数年くしくも3人は担任を離れ、ある意味各クラス・学校を俯瞰することができる立場に立つことができた。
    だからこそ見えてきたものがあるのは事実である。
    おそらくあのまま担任を続けていたならば、少なくとも僕には今だ見えないことがあったはずである。
    今年は、そういう若い人に多少寄り添いながら(時には家庭訪問からの帰校が0時を回っても)話したり、アドバイスを求める人には思いを伝えた。
    でもやはり自分が一端教室に入り、黒板を背にした瞬間から何かが見えなくなっているのだろう。
    それがとても怖い。なぜなら、僕にそのことを忌憚なく伝えてくれる人が現場からどんどん消えているから。
    なので、今日は前任の教頭先生と昼からデートしてきます。僕に意見してくれる人のひとりなんで。

    PS:昨日叔父の葬式でした。昨年末は叔母の葬式。また僕を知る人がこの世から消えてしまいました。

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  2. 子どもとともに「美しいもの」に感動できる感性を持ち合わせていたいです。

    子どもが大人が伝えたい価値に到達するには、ずいぶん無駄や遠回りもあります。そこに意味があるわけです。

    大人が、指先ひとつで検索した地図や時刻表(自分では行ったこともなかったりする)だけ渡して何かを教えたと思い込むもは間違いだと思います。

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  3. 今度、通級の研修で私がしていることを映像で見せてみます。専門用語で説明する必要性を感じないけど、私はこう考えてこんなことをしています、と表明してみます。

    ”美しさ”がわかっているつもりはないですよ^^ 
    何と言われるか、しっかり聞きます。そういう作業を一つ一つ丁寧にしていくのも今年の目標です。

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