2011年2月19日土曜日

よくなりたいか

管政権は何を残すのか?よくもまあ、あんなんで日常が保たれて?いるもんだ。
勝手な思い込みではあるが…
特別支援教育となり「一人ひとりの教育的ニーズに…」と言い出して結構年数になってきた。その歩みでは、知的(重度の自閉症を含む)、肢体不自由、盲、聾、病虚弱、といった障害種別では説明できなかった発達障害児について、その認知と行動知特性の理解から進められていったように思う。
近年、虐待の問題から愛着について説明さえれるようになり、発達障害児についても愛着の形成の視点で児童理解(実態把握)が深まってきた。それは見る・聴くの苦手さ、注意集中の問題といった認知特性の理解だけでは児童理解(実態把握)が不十分で、支援方法も手立てが広がらない現状から必然的に向かった方向である。「人間関係の形成」には愛着の形成は欠かすことのできない知識である。
私は、認知⇒愛着ときて、次は”自立”が特別支援教育のポイントになると思う。
単に、私の理解と関心がそう移っただけかもしれないが。
今週は、思い込みがきつく、100か0で考えることが多く、大きな自己否定感を持つ4年の子とぐったぐたの時間を過ごした。きっかけは、兄弟でDSの使い方でもめることを聞いていたことからだった。思い返し腹立たしくなった彼は紙をやぶり机を小さく蹴って怒り出した。書初が思うように書けず半紙を破り机を蹴り倒す、地図の色塗りがうまくいかないと同じように暴れる、といった話はちょいちょい聞いており「そうやっても解決にならないよ。」と声をかけた。そんなことは百も承知でどうにもならないのが彼である、彼の特性である。
「さっ、じゃあ、ベイブレードの新しいのがあるからやろうよ。」と切り替えさせれば怒りのパニックを回避させられるのはわかっているが、苦手でも根本的に自分の特性を修正しようという意志の必要性に気づかせないとだめでは…と最近思い出した。だから、この日は、切り替えさせる小道具を出さず「そんなことに怒っても、それはきみの都合、きみの都合で弟たちは変わらないよ。」とイライラ話にとどまった。結果、怒りのパニック。
パニックって怒っている彼の前で、私は、突然、椅子を持って立ち上がり、椅子を思いっきり何度もテーブルに叩きつけて投げた。当然、びっくりして私を見ていた。その彼に「きみはこんなことをしている、それが、なんの解決になる?」と聞いた。
その後、ますますパニック。
パニクリながら「こんなボクを誰がほめるねん…お父さんがほめるわけがない…お父さんがほめてくれないと意味がない…ボクなんかダメや…お前がいなければよかったとお母さんは本気で言った…今まで何度死にたいと思ったか…」などなど自己否定のことばを吐いていた。頭を殴ったりテーブルを叩いたり自傷行為もしながら。
「自分を殴ったり傷つけたりしてはだめ」「いいねん。」「じゃあ、先生がはつったろうか?痛くてええんちゃううか?」「自分の体だから自分がするのがわかっていい。」「でも、だめだ、やめなさい。」「ボクの体をボクがすると犯罪にならない。」「きみの体はきみのものであり、きみだけのものじゃない。自分で生まれてきて、ここまで自分で育ってきたわけじゃない。その自分を傷つけるのはお父さんやお母さんに対して犯罪になる。」「こんなボクを好きになるヘンなやつはいない。」「先生はきみのことが大好きだ。だからベイブレードや爆丸の新しいおもちゃを買い、一緒に遊ぶのを楽しみにしている。」「先生がボクを好きになる、そんなヘンなことをしたらあかんやろ、しっかりしんとあかんやろ。」「心配、ありがとう、でも、これでも先生は結構いい先生と言われていて、きみのことが好きだからヘンなどと言われることはない、むしろ、だからいいと言われる。」
などなど自傷行為を止めながら腕をとったり抱きついたり抱きしめたりしながら話し合った?
40分はドタバタし、しゅーとしぼんだ彼は、ポケモンの本を10分ほど座って読み学校へ行った。
「死にたいなんていうな、言うたらあかん。お前は大丈夫。」
私の熱意など何にもならない、むしろ、暑苦しいおせっかいは害だ。彼を導かれるのは神さまである。この方に期待して、願って「お前は大丈夫!」と言い切った。
支援は必要です。しかし、自分で向かうべきことまで人にやってもらうことはできない。
38年もの間病に伏せている者に「よくなりたいか。」と言われた主を思う。
どんな人でも自分でやらなければいけないものがある。やらせるのが支援だ。
そういうスタンスに私が変われるか、私も主に問われている。
下の写真は別の6年男児が書いた。
3月最後の通級で卒業お祝いの会をし、母親に感謝の手紙を渡す。面倒くせ~と吐き捨てながら、泣かせることばを書いている。家族に感謝し、きみの道のりを自分で歩み頑張ってほしい。
彼らといつまでもかかわれない。始まりがあり終わりがあるから、いいんだ、と思う。
私は、いなくなるから活かされる、そういうかかわりをしたい。

2 件のコメント:

  1. こんばんは、meekこと和嗣です。う~ん。読みながら心の内側が反応しています。主の燃え上がる熱い思いが硬派銀じ郎さんを通して生徒さんに注がれているように感じました。

    自分で自分が好きになれないから、どうしようもなく苦しい。だからこんな自分を好きになってくれる人なんかいないし、もしいたとしてもその人がおかしくなっているか、何か自分を利用しようと下心をもっているんだ。僕も小さいころからそう感じ続けていました。

    「お前は大丈夫だ。」
    もしもそんなことばを聞くことができたら、と、心の底から切望しつつも聞くことができませんでした。当然です。それを遠ざけていたのは、ほかならぬ自分でした。

    でも僕もとうとう聞くことができました。

    「お前は大丈夫だ。私がお前の代わりに死んだから。そして復活したから、世の終わりまで、一緒にいるから、決して見捨てることがないから。」

    「お前は、どこにいるのか」

    自分がどこにいて、どこに向かって歩いていて、それでどうなのか?誰かに代わってもらうことのできない、神様がその人に与えられたこと。

    神様の確かな御手に包まれて、じっくり時間をかけて、向き合って、その子の選択を見守る。尊い働きですね。主に期待します。

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  2. meekさん、ありがとうございます。

    彼とは3年目の付き合いになります。
    特性、家族構成(両親、兄弟に会っています)、学校の先生たちとそれなりに情報があり、今までの彼との関係もあった上で、無茶?をしました。というわけで他の子に同じことをするわけではないですし、自分の中でも椅子を叩きつけるなど邪道のこと、と思っています。

    私の仕事では”枠”が欠かせません。
    指導時間(日時)、場所、回数と決めた”枠”を崩さないことです。電話も”枠”を意識して受け付けます。「何かあればいつでも」と言いながら”枠"を崩さずかかわる姿勢をみせます。長い目でみて、それがお互いのために最適です。「ピンチだから緊急に特別に来てもらう。」と”枠”もなくやっていたらますますおかしくなります。しかし、今回は、追加で1回だけ入れました。

    私のしていることが活かされるかどうかは主が決められることです。よくなったようでも、悪くなったようでも、主のご計画の内、と基本は一喜一憂することではない、と思っています。
    そうです、主に期待することですね。

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