雪が降る中、午前中にジムへ行き、汗を出した。いつもはジムのお風呂だが、今日は天然温泉の銭湯へ行った。先日、回数券を買ったので、ジムとセットコースを試してみた。
露天風呂に入りながらちらつく雪を楽しむ予定が、ジムを出た頃には雪がやんでいた。それでも、湯気が半端なく出ており、温泉情緒がたっぷりだった。12時前に入ったので、こんな時間に来るやつはおらんやろ、と思ったが、駐車場もいっぱいで同じようなオッサンがだぶっと湯につかっていた。
帰宅し昼食をとってから半額の150円で借りたDVD「RAILWAYS」を観た。おととし島根に行き一畑電車に乗ってから松江っていいな、と大好きになり、ぜひ観たいと思っていた。途中で、ひーん、と泣いてしまった。モロ、男の願望で泣かすところも定番だが、まあいいか、とハンカチでぬぐいながら観た。
そんなわけで、たっぷり休日を楽しんだ。仕事もたっぷりではないがあるので、やっていく。
私は、仕事上、発達障害に関わる教育相談業務をしている。昨日の研修では、職業センターの方から就労についてお話を聴いた。京大出の方が発達障害で療育手帳を取得され、その枠での就労を相談されているらしい。まれなケースとはいえ、何それ、という感じがした、してきた。
理解されず不当な扱いを受けることには、正すべきものがある。しかし、その苦手さや困難さは庇護されるべきものか?というか、苦手さや困難さを受け入れ分相応に生きる努力を誰もがするのではないか。私は、発達障害がある子らのケースに向き合うが、その苦手さと困難さを受け入れ、その上で自分なりにやろう、とする子でないと、なんの助けも支援もできないな~とつくづく思わされる。「自分なりに、自分でやろう。」と気づけるように見守る、「こんなんしてみたら」と何か用意する、その程度でしかないような…。その程度だから、時間も労力もかけてやらしてもらえるような…。
自分とは何者か、という問いを「発達障害があるから」とごまかす?すりかえる?のはおかしい。発達障害がある、ということが、自分はどう生きるか、の答えになるわけではない。誰しも理不尽なことに向き合い、自分なりにおとしどころを見つけなければだめだ。そうでないから、いくつになっても人のせいにする者がいる。
そんなこんなで、私は自分の仕事で出会い人たちとどう向き合うか、あらためて
さて、どうするか … である。
「RAILWAYS」
返信削除今度見ようと思ってます。
男の願望です…よ、あの映画は^^
返信削除身勝手な…が憑く?くらいの願望かも…。
最近、「発達障害というのは本当に発達の障害なのだろうか」と考えています。特にADHDやアスペルガーの場合、大多数の人たちの入力パターンとはちがうプログラムがあることを障害とするのは、正しい分類でしょうか。
返信削除私のアーチスト的側面から見れば、数ある選択肢の中から、あえていつも醜悪なものを選ぶ美的障害とも言える人や、音感障害、造形障害の人も多数おられるように感じます。
「ある枠組への適応」という観点を、私ははじめから糞食らえと思っているので、それを目的とする療育にも根本的に疑問を持っています。
だから、仮にいくら知識や技量があったとしても、私には特別支援の専門職は回ってこないと思います。
おはようございます。meekこと和嗣です。
返信削除大学卒などの学力的には高い能力があっても、社会生活には困難が存在し、その原因に発達障害の存在を認め、支援を受ける、ということはよくあると思うのです。
硬派銀じ郎さんは、ご自身のお仕事を「さて、どうするか?」と感じられるほどに、どういった点が「何それ?」と感じられたのでしょうか?
その京大卒の方のケースで、苦手さや困難さを受け入れ分相応に生きる努力をすることが欠けていたというように感じておられるでしょうか?
meekです、追加です。京大卒の方が、努力すれば、障害枠でない就労も可能であったのに、楽をして、障害枠の就労を選択された、または、一般でも就職困難なご時世の中にあって、少しでの有利な立場を得ようとした、ということなのでしょうか?詳しいことはわかりませんが、障害枠の就職というものは、どの程度の職が可能性としては得られるのでしょうか?庇護される、と言えるほどに守られた立場が備えられているのでしょうか?
返信削除すみません、推測ばかりで、いろいろ質問をしてしまいまして。でも、気になりまして。お忙しいことと存じますので、またいつか、余裕のあると時がありましたら、教えていただければ幸いです。
Saltさん
返信削除「ある枠組みへの適応」とはまた上手い言い方ですね。ご自身のブログに教育技術について書いてありましたが、それもよくわかりました。自分で考える、その作業を誰も避けられません。発達障害という視点は、根本を見直す時期にあるように思います。
meekさん
返信削除例えに出した京大卒の方がどのような方か私も全然知りません。これもまた乱暴な書き込みになるのですが…就労には確かに苦労されたのだと思います。しかし、就労に至るまで、この方は自分をどう考えて来られたのか、と思います。京大を出れば…学歴を得れば社会生活を営める、と疑いもなく考えておられたのか?と。そこが、何それ?の一番のポイントです。
人が自立していく歩みはとても深いですね。
私たちは意識しようとしまいと誰もが神さまからのもので立っています。この年になって、想像もできない能力をもった人がいるんだ、と教えられます。しかし、そういう人も、その能力を神さまから与えられているに過ぎません。また能力が高い低いという価値観はこの世がつくったものであることが多いです。だから高い能力とこの世で言われてもそれが自立とは関係ないように思います。自立することは能力とは別のものと思います。
発達障害は、認知の特性から取り上げられ語られることが多かったです。最近、虐待にある愛着のゆがみに起因する問題も取り上げられ、認知面だけで発達障害を語られることが少し変わってきました。その愛着の延長に”自立”というテーマがあると思います。そして、”自立”ということを正しく議論しなければ「社会参加」や「就労」といった具体的な施策や支援を適切に取り扱えないように思います。
発達障害といわれる特性があろうと愛着や自立の課題を避けて上手くやることはできません。認知にあらわされる能力がどうであろうと、その人の愛着と自立への取り組みがなければどんな支援も生きないと思います。庇護、ということばは失礼だったのかもしれませんが、認知面や能力面への配慮はできても愛着や自立を肩代わりすることはできません。その勘違いをつい庇護ということばにしてしまったのかも…。
ちょっと抽象的なことになり、すみません。具体的な就労への手立ては研修で聞きました。パワポの資料もあります。私が知っていることはお伝えしますよ。
銀じ郎さんやmeekさんに意見する訳ではありませんが、感じたことを書きます。
返信削除京大卒とか東大卒とかを単純に「賢い」と思う風潮は嫌いです。彼らはただの受験ゲームの勝利者にすぎません。
○○大卒なら、発達障害という事実と調和するのでしょうか?この質問には答える必要はありませんが、考えてみると面白いでしょう。
私は学歴が人を測る重要な判断指標になる学校的価値観には怒りを通り越して吐きそうになります。私はこれにとことん抗います。
教え子にも京大生はいますが、彼らは私の目から見て、非常に点数が低いです。
彼らの根拠のないプライドを支えているのは、彼らの圧倒的な知力や創造力ではなく世間の羨望とシステムに過ぎないからです。
療育手帳をもらうということは、自ら福祉の対象者としての立場を選択することですから、件の京大生の場合、アイデンティティーに葛藤が生じたことは想像できます。
こんばんは、meekこと和嗣です。
返信削除硬派銀じ郎さん、早速のご返答をありがとうございました。
大学在学中に発達障害が判明するというケースはネット上で最近よく見かけるので、関心を持ちました。
小学校で発達障害が判明しなくても、中学校で判明する人もいるでしょうし、高校で判明する人もいるでしょうし、大学で判明する人もいるでしょう。
ある当事者の方が書かれたことですが、大学までは何とかやってこれたが、社会でると本当にキツイ、と。その人は大学時代に発達障害の診断を受けたそうですが、就職時も現在も職場には障害のことは明かさずに、頑張っておられるそうです。ですが、いつつぶれそうかわからず不安だと書いておられました。
支援があるなら受けたいと思うが、実際に自分が必要とするような支援は無いということだそうです。
また、以前の職場で一緒に働いていた人のお子様が大学は無事に卒業できたが、幼いころから自閉をもっていて、卒業はできたが、就職は難しく、家で引きこもりのように過ごしているという話をきいたことがあります。小さなころから障害の存在は明確なので、大学に行けたからといって、将来につながるとは思ってはおられなかったようです。ただ、就労につながらなくても大学を卒業することができた、という過程は、親御さんからすると、認めてあげたいことのように思っておられるようでした。
私も発達障害を持つ人の就労支援には関心がありましたので、質問をさせていただきました。また、いろいろとお聞き出来れば感謝です。
>Saltさん
質問の答えを期待されてはいませんでしたが、返答させていただきます。大学の生徒さんに発達障害をもっておられる方がおられるということに関して、どのような大学名であっても何ら変わりは無いと考えます。
そのような統計を見たことはありませんし、予想もつきませんが、校名によって差異は無いのではないでしょうか?
>Saltさん
返信削除>大多数の人たちの入力パターンとはちがうプログラムがあることを障害とするのは、正しい分類でしょうか。
多数派と違うプログラムがあるから「障害」と分類されているのではなくて、本人、または、家族や職場の隣人などの周囲の人との関係の中で、何らかの困難が存在し、本人がその軽減のために支援を求めるときに「障害」とされる、ということではないでしょうか?
少数派であっても、それをカバーできる能力があったり、または本人の自助努力や、周囲の環境との関係が良好に保たれ、そこに困難がなければ、「障害」とは誰も認知しないのではないでしょうか?
Saltさん
返信削除なるほどと的確な言葉を使われますね。「世間の羨望とシステム」という「学校的価値観」にすがっていては幸せにはなれません。
meekさん
教会の姉妹(ある短大の学長さんですが)のご主人は京大教授です。チョー変わっています。あれを自閉群にある人と言わずして誰を自閉というか、という感じです。診断などないですが、社会で働く発達障害の方はたくさんいます。その人たちと就労が上手くいかなかった人の違いは障害だけ理由ではなかったのでは…と想像したりします。
私は「あるべき特別支援教育」という価値観にしばられていたという反省があります。今、自分が見つめて取り組むべき事柄が見えてきたように思っています。
いつもズケズケと書かせてもらってすみません。
返信削除でも、これだけガチンコで発達障害について発言出来る場所、しかもキチンと応答してもらえるところはあまりないです。
知的な障害ではないタイプの方々にとって、「学校知」と「生活知」(世間知)とのギャップは大きいです。
そして、meekさんの書かれているとおり、先天的な種別より、周囲の人たちとどういうつながりを持ってきたかという生育歴の方が大きいです。
meekこと和嗣です。同感です。貴重な交わりの場を与えていただいて感謝しています。本当にありがとうございます。
返信削除なるほどです。鈍い私にも、今回のエントリとやりとりの趣旨が、何か、わかってきた気がします。ありがとうございました。
Saltさん meekさん
返信削除ありがとうございます。読ませていただき書き込むことで自分でも気づきがありました。
私のテーマは「愛着と自立」です。子ども自身が愛着を形成し自立へと歩むことと同時に、取り巻く保護者や教師などの大人が、その子の「愛着と自立」をどう見守っているか、そこを一緒に見守れるのか、が私の仕事です。
「愛着と自立、その間を…」が私の立ち位置かと。