学校に行きたくない、教室にいたくない
そんなことを私も思ったが、だから休む、教室に入らない、とはならなかった。
そこにいたくない、という気持ちを想像するとき、私は「教会に行きたくなくなった」ときの自分の気持ちを考えると、しっくりきてそういう子らの気持ちを理解する手がかかりを得たように感じる。
そこにある価値観や嗜好の漂い方が、どうにも合わず、その中でズレていく自分で息がつまりそうになる。そこでひたすら我慢する必要はなく、自分なりのペースをしっかり築き、そんな中でも平気でいられる自分ができたら、ゆっくりそんな世界(学校)に付き合えばいいよ、心の中で声をかける。
じゃあ、行きたくなければ休めばいい、と言っているかというとそうではなく「学校は行くもの。休んじゃダメ、行こうね。」とたいがい言っている。行こうが行かまいが、自分をどう育てるかが大事で学校に行ける行けないで、自分以外に何かの責任をとらせようとうとする姿勢には冷たいくらいの対応をすることにしている。
人の支えを得ながらでも自分で立とうとする人と、立つ気がなく甘ったれるだけの人は全然違う。
後者の方には実は何もできない。私は、いつもニヤケ顔なのでなんでも受け入れると思われるのか「知りません」的態度で突き放すと驚かれる。でも、自分の中でそのけじめはつけている。こんな私をダメだと思われる方は、どうぞ他の相談者に行ってください、と。もちろん、主に祈りながら。
自分で優先順位を決めたり比重のかけ方を変えられたりできるので、変なストレスはなくなったが、判断が間違っていないか、それは祈るしかない。
そんなことを考えながら、ケースに伴走できればと思う。
写真は箱庭で遊ぶ様子です。専門的には「箱庭療法」というものがあり、その道の方に見られるとお叱りを受けるかも。私がええ加減にやっているから…。
子どもがしているときは、横で見てながら「へぇ~」と「おもしろい」「これは何なん?」とたまに声をかける程度だった。
今度、来たとき私が撮った写真を、私の声かけとして渡そう。
同感です。
返信削除大自然を見渡しても、毎日決まった時間に行き先が決まっている生き物なんてそういないしね。
のら犬だってもう少し気高く自由に生きてるって。
数百年前には、そもそも休もうにも学校なんてなかったし、数十年前には、ひこもろうにも子どもに個室なんてなかったんだから・・・
などとテキトーに話していると、「変なセンセもいるもんや」と多少気楽になってくれますよね。
行きたくない教会に行き続けてる人はただのマゾ的嗜好があるのかも知れません。
今日は自宅で文書作りでした。ひと段落したのでジムへ行ってきます。
返信削除「ひまわり」と「約束の場所へ」に励まされ、まとめました。
松田聖子については、ちょっとコメントしたいけど、また…。
ほうほう、ゆっくり聞かせてください。
返信削除これはまたいい写真ですね。
返信削除いつもコメントするのを遠慮してるんですけど、写真につられて書いてます。
この写真を本人に見せるというのもすごい。見せて、と言われたんでしょうか。
先生はこのように君を見ている、先生だけじゃなく他の人から見るとこのように見える、ということを示すわけですよね。
銀じ郎さんのことですから、他にも意味をお考えなんでしょうけど、すごいアクションだと思います。
その瞬間に立ち会いたいくらい。
彼女はどのように受け止めるでしょうか、また茶話会でお聞かせください。
写真に「まなざし」を感じますね。
返信削除私も自分の現場の一番近い子どもを撮ってて思うことは、所詮「通りすがり」のカメラマンにええとこさらわれてるようじゃ駄目だなということです。
我々はもっと間近で連続動画観てるわけだし・・・
「兵士は戦場カメラマンにはなれない」的な理屈は成り立つのかも知れないけど、現場写真撮り始めた今年は、撮ることによって、子どもへのまなざしが少し変わったなと思っています。
Y.B.Mさんの写真論的にはどうなんですか?
Saltさん
返信削除松田聖子は「作詞:松本隆/作曲:呉田軽穂/編曲:松任谷正隆」が好きです。でも大村雅朗が作曲した「真冬の恋人たち」と「sleeping beauty」は松本隆の気持ち悪さ^^が一番引き出された曲のように思います。
S&Uの掛け合いで「真冬の恋人たち」をやってください。
松本隆が松田聖子を「天才」と言ってました。松田聖子そのものは、どうにも受け入れられません(全然タイプでないです~)が、曲となると、あの世界観に参ります。
ジャニーズやAKB48など、最近は「すごいな~」とテレビを見てしまいます。
Y.B.Mさん
8月の茶話会で「ちょっとわからなくなてきて…」みたいなことを相談しましたね。この写真は、無理なく撮れました。本人が出来上がったものをお母さんの携帯で撮ろうとしうまくいかず、私のデジカメを貸しました。自分が撮った写真と一緒に私が撮った写真を見せようと思っています。
実は、あまりあれこれは考えられていません。
いつもたわいない話の後、この子がしたいことをする横にいる私です。大したことができていないな~と思っていたので、写真もこの子を元気にするものになると、とても嬉しいです。
Y.B.Mさんがコメントをくれ、こんなかたちで撮っていけたら、と思いました。私がことばでは言い表せない応援のことばを写真で伝えられたら、とてもいいです。
Saltさん、Y.B.Mさん
松田聖子も昭和歌謡も大好きで、勝手な思い込みを入れながら子どもを見る私です。でも、そういう私の空気の中が「今はちょっとすき」と言ってもらえるような仕事をしたいと思っています。
コメント、ありがとうございます。
こういう写真を見せてやるのは、子どもの視界を広げるものすごい支援ですよ。最近「デジカメ」に大いなる可能性を感じ始めています。ナンボでも授業に使えそうです。
返信削除それから聖子ちゃん、そうなんですか。タイプじゃなかったとは初めて知りました。隆さんの世界観に引き込まれるのは、もっと変態度が高いですね~。
私、AKBの仕掛け人である某氏は本気で嫌いです。
「まなざし」というのは、撮影者を主体とした「関係」を視覚的に言い表す言葉だと思います。
返信削除この子が写真を見た時に、今の自分は、この時自分は、誰かに見守られているんだという「まなざし」を感じるのだとすれば、銀じ郎さんがおっしゃる「愛着者の内在化」と関係することではないでしょうか。
また、何年後かに、この子がこの写真を見返してみた時に、先生はなぜ、何を考えてこの時シャッターを切ったんだろうと思いめぐらすことがあれば、それは意味のある仕事だと思います。
Saltさんはまた僕にしゃべらせようと...いじわるな。銀じ郎さんすみません。
僕の写真論というと「写真は逆証」という仮説のことですか?
前半の問題は前にもお話しした、その時シャッターを切れるかどうか、にかかっているので、どちらの立場がいいとは言えません。
そして後半の問題については、この写真論に当てはめるなら、「もともとそうであった」もしくは「撮る前からそうであった」ということになります。どうでしょうか。
発する言葉は表層的意識、理性によって作られます。そういう理解されやすく美しい言葉で語る写真もありますし、最初はみんなそういう写真を撮りたい、見たいと求めます。
しかしその言葉の前後背後にあることを読み取り、その部分だけでも共感しようとすることが「写真を読む」ということだと思っています。
僕はSaltさんが何と言われようと、Saltさんの写真が語ることを信じようと思うくらい、写真バカですから。
いやいや、家具屋ですから。
ミポリン(中山美穂)はタイプだったけど…
返信削除曲になるとダメ、松田聖子はタイプじゃないけど、あの世界観が、ってもういいか。
AKBの仕掛け人が大嫌いなのは、よ~くわかります^^
デジカメの可能性は私も感じます。
私の教室での様子を、あんまり構えずちょいちょい撮ろう、それを子どもに見せようと思います。客観的に自分をとらえる、そういうことをメタ認知などと言うことがあります。そんな無機質なことばじゃなくても、写った自分を見て、何か気づいてくれたら、と。とにかくやってみます。そして…
写真が語ることを信じよう
なるほど、そうですね…。私も信じてこの子とそのお母さんにこの写真を渡します。
今朝、5年前担任をしたクラス(現在のところ担任をした最後の学級です)の子にばったり会いました。
卒業式の後、この子が中心になってクラスの子を撮った写真セットをくれました。そんなもんを振り返っていてはあきませんが、今見直すと、いい写真だな、と思います。
ご指摘の通り、これも「内在化した愛着者」ですね。
銀じ郎さんの仕事と写真からY.B.Mさんのお話も展開し、いいトピックになりました。ありがとうございます。
返信削除そう、「写真は逆証」という話です。
周辺の情報を排除したとき、写真そのものがそれ自体でどれほどのことを語れるのか、あるいは、写真を「正しく」読むなんてことが果たして出来るのか?
写真の読み手がありもしない共感に酔いやありもしない物語を紡いでいるだけではという気もしないではないのです。
どこまでもひねくれているでしょう。
それでもY.B.Mさんとの出逢いがなければ、写真のことは真剣に考えはしませんでした。
銀じ郎さんが、ミポリンファンとは・・・これも初めて知りました。私らはあの当時、普通は若者たちが自然にしそうな話なんかしたことなよなあ。それぐらいいびつだったんですよ。あの文化は・・・・
こちらこそ、本当にありがとう。
返信削除ほんま、ひねくれてますね^^
でも、Saltさんの写真はびっくりするくらいストレートでした。
あのころの文化は…、まあ、よしとしましょう。
やっぱり挑発にのってしまいます。にやりと笑われているのを感じつつ。
返信削除でもこれで最後にします。人ん家でこれ以上は気が引けますので、続きがあれば、うちのBBSでお願いします。
Saltさん、以前茶話会で同じようなことを聞いてらっしゃいましたね。よほど気になるんでしょうか。
写真そのものそれ自体で語るためには、内容はもちろん技術的なクォリティーが必要になってくると答えました。技術がすべてではないにしても、「絵がきれい」ということは、それだけで訴える力があります。
しかし内容がいい場合、技術的に足りなくても、それを補う方法があります。それが周辺の情報です。周辺の情報は排除すべきものではなく、むしろ必要な情報だと思っています。
それは受け手が読むためではなく、撮影者が伝えるために選択すべきことだと思います。
茶話会でみなさんに自分の写真を見せながら話してもらうことや、銀じ郎さんの写真集においては核となるのは2〜3枚で、あとは周辺の情報です。
正しく読むということは多分無理です。でも読むということは、与えられた情報だけで、できるだけ解読しようとするしかないと思います。
受け手の勝手な解釈というなら、音楽や文章の方が、受け手の個人的な経験と結び付けられることが多いのではないでしょうか。それはいけないことでしょうか。
また、撮影時に何の感動もありもしない、物語もありもしない写真って撮るのは難しいと思います。
Saltさんの写真からは、子どもたちと一緒にはしゃいで、笑って、見つめているSaltさんを感じました。あの時一緒に見ていた参加者の皆さん全員が、臨場感を感じ、楽しくなっていたと思います。
あの写真を無表情無感動で打算的に撮れるのだとしたら、職業カメラマンの素質ありですよ。
Y.B.Mさん
返信削除丁寧にお答えいただいてありがとう。
どんな表現であれ、受け手の物語と結びつくことは、悪いことではないし、むしろ多様な物語を引き出すものは、すぐれた表現だと思っています。
私は、あらゆる分野で批評家を自称する者を嫌悪しています。批評することは決して表現でも実践でもないからです。
写真を読むことが批評になると嫌なのです。絵の前でタラタラ蘊蓄を語るのも同じように嫌いです。現場を知らずに教育を語る奴は信用しません。
情報を読むことと、自分の情報に酔うことは紙一重だと思うのです。
この点について、私は繊細でいたいのです。
銀じ郎さん
タラタラとすみませんでした。続きはまた何処かで。
とっても面白いお二人のやり取りです。
返信削除写真に関しては、確かにここでするにはもったいないくらいの内容なのでは。私自信、写真をどう自分の中に位置づけるのか、考えさせられました。
この写真の子に今日会い、自分が撮ったものの後、私のものを見せました。自分が撮った写真が気に入ったのか、いい顔をしていました。その後の私の写真には、ちょっと戸惑ったような?私も?だったので「なんか照れくさい?」と聞くと、ちょっと笑ってうなずきました。
少しの時間でしたが、確かな一歩でした。